映像と「時間割」:データの量と密度の混同

今年度に入って、授業のたびに前日は毎回ほぼ徹夜で iMovie の映像を編集している。舞踊だけでなく、音が関わるパフォーマンスは、ピアノもオラトリオもオーケストラも、今となっては、その姿を見せながら説明するのが一番効果的だし、そのための素材が揃って来た感じがするのです。

テレビで育った世代は、カラヤンもホロヴィッツも(コンサートをドロップアウトしたグールドですら)耳で聴くだけでなく、「目撃した」と思うんですよね。

(先日も、これは自前で編集しなくても商品としてパッケージ化されているが、「オーケストラがやって来た」で安川加寿子と小澤征爾が共演している映像を授業で使って、パリ音楽院帰りの東京芸術大学教授と、桐朋出身の「音楽武者修行」な万年青年の関係は、山本直純(ああいう人だけれども山の手言葉でしゃべれるんですよね)が狂言回しになる舞台での演奏と言葉のやりとりを「見る」のが一番だと改めて思いました。)

歴史研究が、文献(文字資料)から「お話」を取り出す学問から、考古学のような物証による「事実」の掘り起こしを経て、五感や記憶や身体の歴史性に手を伸ばそうとするのと、ヒトが動く姿を捉えるメディアが発達したのが同時期なのは偶然ではないかもしれないし、

芸術研究が、ギリシャ古典学(文献学)によって宗教(聖書)から解放されて、画商が暗躍する印象派=絵画彫刻の商品化の時代に(たぶん鑑定の基準作りの必要と連動して)美術史学が整備されて、録音技術が開発された20世紀に音楽学は先行する文献解釈学や美術史を見習いながら方法論を整えたわけだけれども、動き・パフォーマンスを捕捉するメソードとしては、やっぱり映画研究のほうが将来性がありそうなわけで、その先に game/play 競技・遊び全般を取り扱ってやろうじゃないかという野心的なプロジェクトが立ち上がっていたりもするわけだから、

せめて、動く映像を適切に取り扱うくらいのことができないとマズいご時世なのだろうなあ、と思います。

たぶん、そこまで来てはじめて、「動きすぎてはいけない」という標語が意味をもつのでしょう。絵を動かすことにのめりこみすぎると睡眠不足になりますからね(笑)。

(ピアノ・コンチェルトについての本日の授業は、力尽きたので、映像編集なしで、既存の手持ちの素材で行います。)

ところで、タイトルに掲げましたが、実際に素材を集めて映像を編集してみると、この作業の実態は、かぎられた時間枠にデータを詰め込む「圧縮作業」ですね。今日の授業も、従来2回かけていた話題を1回にまとめるために素材を絞ろうと思っているのですが、映像はそういうプレゼンテーションの「圧縮」の強力な武器になる。

データが圧縮されて削ぎ落とされているのに「中身のつまったプレゼンだった」という充実感が得られてしまうのは、データの総量が減っても単位時間あたりのデータ量が増えて、結果的に「情報量」が大きくなっているからだと思う。いわば、量と密度の混同が、映像のトリック、力の源泉なんでしょうね。

(誤解でなければ、情報理論というのは、そういう考え方で組み立てられているはず。)

液晶ディスプレイの開発では「高解像度」がうたい文句になるけれど、同じ解像度の場合、画面のサイズが小さいほうが画像が「精細」になって、「高解像度」の効果が増すのに似ているかもしれない。歳を取ると、「解像度/精細度」より画面(とそこに表示される文字や記号や図柄)の物理的なサイズのほうが切実に重要だと思うんですけどね。

大学の講義・授業が、データの量ではなく密度を重視して、映像によるプレゼンが重宝されがちな状況は、「時間割」(まさしく単位時間あたりのデータ量を問題にする制度だ)で物事を判断する傾向にブレーキをかけないかぎり続くでしょうね。

時間無制限のトークやゼミナールというものが、昭和の時代にはあったわけですけどね。

(昨日の授業では、「効率的な情報収集の場」というスタンスで受講する学生さんたちにあまりにも基礎教養が欠けている気がしたので、予定を変更して、時間めいっぱいに現在の学問状況の経緯と問題点みたいな抽象的な話を即興的に展開して、学生さんには迷惑だったかもしれないけれども、私としては溜飲が下がった。こういうのは一度かぎり。日常的にやってはいけないのはわかっていますし、次回の授業は従来の倍速に情報を圧縮します(笑)。)