ショパンとドイツとフランス官僚

ロベルト・シューマンをクララ・ヴィークの側から捉え直すのに続いて、パリのショパンについては、「ドイツ派の亡命ポーランド人」と見るのがいいのではないかと思っている。

ワルシャワにおけるショパンが「ドイツ派」だった、という指摘は以前からあるし、シューベルトやウェーバーやフンメルのピアノ音楽の影響を個別に色々指摘できる。それだけでなく、ショパンによる「発明」だとされる「音楽としてのバラード」はナショナリスティックな文脈でミツキエヴィチとの関係があれこれ議論されてきたけれど、ゲーテやシラーの「文学としてのバラード」に作曲したシューベルトの「歌曲としてのバラード」があってはじめて、器楽バラードをショパンが書きえたのではないか、と最近気がついた。

(ショパンのバラード第1番はシューベルトの魔王と同じg-mollだし、バラード第2番はドイツの変人批評家シューマンに献呈されている。)

そして大きな文脈としては、19世紀フランスのブルジョワの台頭は、従来のフランス宮廷におけるリュリ以来のイタリア人音楽家の活躍に終止符を打って、ドイツ人/ドイツ系音楽家の流入を促進したと言えそうに思う。なんといってもオペラ座にベルリンのユダヤ人マイヤベーアが君臨したのだし、カルクブレンナーはドイツ人、プレイエルやシュレザンジェはドイツからやってきた音楽業者だし、リストやショパンもドイツ系の音楽家に学んでいる。

(スタンダールがロッシーニを礼賛したのは、ナポレオンを追放したドイツが憎くて、その思いが音楽におけるイタリア軽視&ドイツの台頭への反発と絡まっているように見える。)

パリのバレエに「ルイ14世以来300年の伝統」を言えないように、フランスの音楽に「ブルボン王朝以来の連続性」を言うことはできないと思う。

唯一継続しているものがあるとしたら、官僚制が前例踏襲を上意下達のヒエラルキーで盤石に維持した、ということなのではないだろうか。

西国の下級藩士が成り上がった明治政府はドイツ帝国をお手本にする国作りに帰着したけれど、旧士族には、結構フランスびいきがいるように見える。表向きは「エスプリ」といった19世紀以後の価値観を語るけれど、フランスの知識人のほうが、ドイツの教養市民よりも、むしろ「宮仕え」の機微をよくわかっている、そんな見方がありうるのではないかと思う。

(尾張藩(←豪勢な土地柄だったらしいことを先日のブラタモリでようやく知った)の藩医の末裔であるらしい柴田南雄は、諸井三郎に師事して、十二音技法とかバルトークとかマーラーとか、ドイツorハプスブルク領内の音楽に軸足を置いた人だったことになっているけれど、あれは、自分の体質に合わない音楽を義務感で勉強したんじゃないか、という気がしてならない。スマートな立ち回りは、ガリ勉で教条的な池内友次郎より、はるかにフランス風に見える。)

ポストモダン思想が、在野の批評といいつつ、案外大学の制度的な知にフィットしやすい、という最近のあたりまで、フランス的な「宮仕え」は日本の「宮仕え」と相性がいい状態がずっと続いている気がする。