抑圧の解除法

クララ・ヴィークが、奇人変人としか言いようのない独身時代のロベルト・シューマンのピアノ音楽をどう受け止めたのか、という話の最後に、「子供の情景」第1曲をクララの晩年の弟子が弾くのを聴いて、この曲の一見平易だけれども繊細に考え抜かれた書法を簡単に分析した。

そういえばこの曲は、岡田暁生が美学会全国大会の口頭発表で分析したことがあったんだったと思い出した。私がまだ学部の3年で研究室に入りたての頃で、岡田暁生は博士課程の3年目。学会本番には行けなかったが、ゼミでの予行演習を聴いて、楽曲分析というのはこんなに鮮やかに作品の魅力を輝かせるものなのかと、魅了された。

この発表は美学会の機関誌には採用されず、内容を拡張した論文が、のちに阪大美学のフィロカリアという雑誌に載った。

随分前に書いたと思うが、シューベルトやウェーバーのピアノ曲と格闘していた頃は、この岡田暁生のシューマン分析がお手本・目標で、こういう文体・手つきでロマン派のピアノ音楽について書き、分析できるようになりたいものだ、と、そればかりを思っていた。

博士課程の終わり頃に、フィロカリアに何か書け、と言われてウェーバーのピアノソナタを分析したときには、既に岡田暁生は阪大の助手から神戸大に転出していたが、それなりに頑張って書いて、このときの論文でようやく、作品分析を文章にまとめるやり方・文体を自分なりに見つけたような気がした。

ただし、そこで何となくやりたいことはひととおりやれてしまった気がして、その先はほとんど成果を出せなくなった。

ロールモデルを設定して模倣する勉強法(どこかしらホモソーシャルな嫉妬の原理ですよね)は、ある水準までは行けるけれど、それだけでは頭打ちになる、ということだったのだろうと、今は思う。

今回、クララ・ヴィークを導入することで20年後にその先へ話を進めることができた気がしているのだが、

そういえば、大学院進学前に岡田暁生に呼び出されたときに、当時彼は伊東信宏と二人でシルヴァン・ギニャールに楽曲分析を習っていて、「子供の情景」を徹底的に分析したと言っていたから、シューマン論はギニャール仕込みの分析だったのだと思う。

で、前に書いたようにギニャールの祖母がクララ・シューマンの弟子だというのが本当なのだとしたら、それってつまり、岡田暁生は、シューマンから直系でつながったところで「子供の情景」を教わったことになるんじゃないか、と、遅ればせながら、さっき気がついた。

だとしたら、クララがロベルトのピアノ曲をどう捉えていたか、という話を導入するのは、議論を先に進めたというよりも、当時は見えていなかったミッシング・リンクがようやくつながった、ということなのかもしれない。

(女性パートナーの役割を視野に収めることで、謎めいた男性芸術家を解読できるようになる、というのは、ホモソーシャルな抑圧の解除法として、少々わかりやすすぎるとは思いますが、こういう形で学生時代にシューマンに絡め取られて、中年を過ぎて解法がわかる、というのは、芸術と実人生が絡まり合う傾向のある「音楽のロマン主義」とのつきあい方として、結果的にはラッキーだったのかもしれない。

知っている人は知っているわけだが、変人岡田暁生の奥様は、これまたよくできた方で、何かと七転八倒する学者の傍らで泰然自若としているパフォーマー兼作曲家でいらっしゃるわけですね……。

そしてこの因縁話は、クラシック音楽をめぐる諸々に決着をつけてセミ・リタイア状態の岡田暁生(彼にクラシック音楽をインストールした父・岡田節人は既に没した)が、ブラザーな黒人共同体で伝承されていることになっており、創作が同時に即興的なパフォーマンスであるようなジャズにはまりこんでいく経緯を納得するときにも、多少は役に立つかもしれない。)