音楽批評にとっての音盤と放送の恩恵

先日ふとそんな話題になったのだが、

関西在住で関西に軸足を置く音楽評論家、というのが可能だったのは、

第一に20世紀後半のLPレコードによる音楽鑑賞の普及。これのおかげで、どこに住んでいようと、グローバル(当時の言葉で言えば「コンテンポラリー」)な音楽文化にアクセスできて、音楽文化のフルメンバーとして発言できたのだと思う。

(浜松生まれで名古屋大宇宙物理に学んだ横原千史や、金沢生まれの大久保賢あたりが、この確信をベースに自らを音楽評論家と名乗ることのできた最後かな、と思う。

以前、山田治生が東京交響楽団を批判したドルトムントの評論家を「地方評論家ふぜい」呼ばわりしていたが、これは逆に、もはや、音盤がワールド・ワイドな音楽文化のメイン・フィールドである、という了解が解体しつつある21世紀初頭の感覚なんだと思う。音盤とは関係なく、東京は「ワールドクラス」の音楽家が日常的にやってくる都市であって、その国際的なプレゼンスはドルトムントなどはるかに凌駕しているはずだ、ということを、山田さんは、音盤ベースではなく、興行ベースで心の底から信じているように見える。音楽ジャーナリズムにおける「ネオリベ山田」の登場は、下部構造(の変化)を受けているのでしょう。(そういう論陣を張るなら、東京が名古屋・大阪・福岡に圧勝の国内ナンバーワンなのは誰の目にも明らかだとしても、シンガポールや韓国や中国と比べたときの東京の「クラシック音楽消費地」としての市場価値を客観的に裏付けないと単なる愛国、お山の大将に堕落すると思いますが……。東京は本当に東アジアの「音楽の国」の盟主たり得るのか?))

そしてもうひとつ、関西には、民間放送をベースにする「テレビ文化人」と言うしかない人たちがいた。やしきたかじんの後ろ盾で橋下徹が出てきたのが最後で、発祥は民間放送のラジオ、テレビの誕生まで遡ると思う。大澤壽人は朝日放送ラジオ開局当時の専属だし、戦時中にJOBKでたくさん仕事をした朝比奈隆は戦後、まちがいなく「テレビ文化人」だった。いまでは佐渡裕がそのあとを継いでいるし、少し上の世代まで、音楽評論家も、ラジオやテレビの番組を持っていた。

レコードとラジオ・テレビ時代の音楽評論、というのは、柴田南雄や吉田秀和だってそうだったのだから、たぶんそのうち、ちゃんと整理しないといけないトピックなのだろうと思う。

「テレビ文化人」が北新地(朝日も毎日も開局当時はあのあたりに放送局がありました)やミナミを闊歩した時代というのは、もう、ほとんど具体的な像を結ばなくなっている伝説の領域になりつつありますしね。

(1980年代以後の「音楽学者による音楽評論」は、たぶんこうした、音盤と放送に軸足を置く音楽評論への対案として機能したんだろうと思う。)