夫婦別姓論と博士号至上主義

小谷野敦が、夫婦別姓論は、一見リベラルに個人の尊厳を主張しているようだが、実態は家名存続を願う保守主義だろうと繰り返し発言しているが、

大学・高等教育のヒューマニティーズ、リベラル・アーツを博士号至上主義で再編せよ、という主張も、同様に、博士号の下での平等を主張する理想主義のように見えて、実態は、形を変えた東大至上主義だろうと思う。本当は東大生が東大生だけとつきあう場を作りたいのだけれど、博士号をもっていれば東大生ではなくても話を聞いてあげましょう、というシモジモの凡人への「有り難い譲歩」(笑)だ。

実際のところ、安定して人文学の博士を育成できる環境があって、それにふさわしい人材が集まる場所は、せいぜい旧帝大と有力私大くらいであろうと見積もられていますよね。

戸籍制度を止めて住民登録一本で国民・居住者を管理する形に切り替えないと、家名存続の欲望(それは外国籍差別とも裏腹だろう)を根治することはできないだろうし、

大学と呼ぶには問題がありそうな機関を「大学」に含めている状態をどうにかしないと、エリート教育の明快な制度設計は難しいんじゃないかと思う。

大学を減らして、学位授与機能をもたない専門学校的な何かを充実させるのが、着地点じゃないかと思うんですけどね。

そしてそのように誇りと尊厳を回復した人文学博士の先生方に、落ち着いた環境で、大学以外でのヒューマニティーズ/リベラル・アーツ教育の有効性を理論的(啓蒙的)・実践的(アウトリーチ的)に考えていただくのが、いいんじゃないか。

大学から大学ならざる機関へ人材を派遣する、という形態であれば、博士号取得者の働き口をどうするか、という話も、往年の「学閥による系列化」みたいな隠微な形ではない人員配置の問題になりますよね。創発的な研究は難しくても、アウトリーチ的な復習教師としては有能な人というのはいるわけだから。

キャリア・デザインは、一本の長い道 serie ではなく、行と列の賢いやりくり matrix であったほうがいいに決まっているのだから、大学・高等教育が率先してそうすればいいのに、何をぐずぐずしているんだろう。

私は、後ろ向きであれ前向きであれ、右であれ左であれ、上から目線であれ下からの突き上げであれ、「口先だけで実態が伴わないええかっこしい」が大嫌いだが、基本的には、もっとやれ、と思っている。たぶん、その線でおおむね主張は一貫しているはずだと思いますが、どうでしょう。

[追記]

男で東大出身の研究者が東大教員になるのが狭き門になりつつある。

なるほど、そうすると、博士号至上主義は、戻るべき故郷を失った東大博士たちのシオニズムの色調を帯びている可能性があるのかもしれませんね。

阪大美学は、木村重信が京大美学に戻れなくなった芸術学の同窓生を集めて作った。そのとき助教授をすべて京大以外からスカウトしてシオニズムを回避したのは、山崎正和がそのことを自慢しているけれど、結構偉かったかもしれませんね。(音楽学は、山口修が渡辺裕、根岸一美と2人続けて東大出身者を招いてどうなることかと思ったが、根岸先生が伊東信宏を阪大に引き上げて事なきを得た。大学の人事は、学問政局のメイン・フィールドですねえ。)