近所の大学とグローバルな大学

「世界で闘える博士を育てないでどうするか」と、東大生が耳元で叫ぶのを正直うっとうしいなあ、と思ってしまうのは、私が、路線バスで通える家から一番近い大学に行ったに過ぎないからかもしれない。

(それじゃあ、いま自分が大学生だったら立命館茨木キャンパスに通ったかというと、それはどうだかわからないけれど。)

北摂の住人が阪大へ行くのは、阪神間の子弟が関学や神戸女学院へ行くのとそれほど違わないし、京都の子は京大に行って、東京の子は東大や慶応に行くんだろう、くらいに思っていたのだが、随分、東大的価値観が幅を効かせる世の中になったんだなあ、と思う。

なんとなく、軍国主義の類似品としての東大主義という感じがある。

「お洒落でハイソでかっちょいい暮らし」をしている人が街のどこかにいるのは確かだが、かつては誰もがそれを目指していた、というのは違う気がするけどなあ。

マスコミがかつてそういうのを煽った時代があって、マスコミ志向の人はそういうのを意識せざるを得なかったのかもしれないけれど、今ではマスコミもミニコミもそういうことを言わなくなったなあ、ということなのではなかろうか。

(他方で街中の老舗のデパートに行けば、いまでも普通に「お洒落でハイソでかっちょいい暮らし」をご提案してもらえると思いますよ。たぶん。)

私が住んでいた高槻の団地では、小学校の高学年になると男子は放課後、球技ばっかりやっていて、女子は家でお人形遊びか習い事だった。そして私は目が悪いので男子の球技にはまったくついていけず(体格的には運動音痴というオタク特性に該当するわけではなかったのではないかと今振り返ると思いますが)、いつも女子に混じっており、その流れでピアノをはじめたにすぎません。

昭和後期の都会の団地は社会階層が極端に同質化して、ほぼすべての世帯が30代サラリーマンの核家族であり、ブルデューがフランスの文脈で指摘したような隠微な階級のディスタンクシオン(カルチュラル・スタディーズな人たちにとって好都合な)よりも、性差が前景化していたように思います。

80年代の華やかさは、そういう環境で育ったわたくしには、なるほど世間にシュミラークルな仮死の祭礼(←今は誰も知らない言葉か?)というように「お洒落でハイソでかっちょいい」フランス思想のノリで語られてしまいそうなイメージが氾濫してはいたけれど、女子の活躍の場が少しずつ広がって街の感じが変わっていったことが大事かなとも思います。かつて太陽族だったおじさまたちは、そういう女子を割と歓迎しましたよね。

90年代の不景気で、世間は随分、むさくるしくなったけれど、それでも死に絶えなかったのが「女子力」、ということで今日に至るのではなかろうか?

そして私が育った環境では、女子の多い場を選べば、別にキモくなることなく普通に「勉強」してよかったように思う。

モテを含めて、ホモソーシャルな何かを背負った男子たちと大量に遭遇したのは、阪大進学以後のことだ。あれは本当に馴染めない男だらけの環境だった、笑。

就職とサークルでのお嫁さん探しを目的とする男の狩人たちは4年(理系は6年)でさっさと大学からいなくなったので、これでやっと「勉強」ができるかな、と思ったら、今度は、文部省から「博士号を取れ」という指令が降りてきて、先生たちがそういう指導をするようになったので、結局、大学院に進んでもずっとザワザワして落ち着かない環境だったですね。