中高年大学教員が「負けるが勝ち」話法に傾く理由

「私以外のすべての人は賢い」という命題は嘘つきのパラドクスと違って自己言及を含まないけれど、この命題が真であることを証明するのは、「私は世界で一番賢い」を証明というか実現するより難しい。

他人を誉めておけば指弾されることはないだろう、という戦略は、だから、問題の先送りなのだと思う。証明されねばならない検討課題を事実上無限に近い状態まで増殖させてしまうのだから、この命題はブラックホールだ。

ポパーの主張は「われわれの世界は真理を実証できる世界ではなく、誤りを反駁できる世界である。しかし世界は存在するし、真理も存在する。ただ世界と真理についての確実さは存在しえない」コンラート・ローレンツとの対談の序文。(小谷野敦)

そして既に一定の地位を得た者には、怠けるインセンティヴがある。

デフレは貨幣価値を高める=持てる者をさらに富ませる/貧乏人をますます貧乏にする、なので、持てる者が脱経済成長だのもはや成長はできないだの清貧だのと説くのは利己的トークとして合理的ではある。仕事にあぶれた若いのとか貧乏人は死ねと言っているに等しいが、利己的には合理的ではある。(栗原裕一郎)

ただし、たぶん、怠け者が怠けたままでも、その傍らに勤勉の正のサイクルを構築すれば、全体として経済が上向くことがありうる気がする。(というか、実際いまは徐々にそうなっているよね。)

そしてたまたまエコーチェンバーで発見された「優雅な怠け者」をつるしあげてひとつずつ潰していっても、そのような勤勉のサイクルは回らない。時間の無駄(すなわち「優雅な怠け者」の思うツボ)である。

「優雅な怠け者」は放置して、ワアワアうるさかったら、「うるさい」と言えばいいだけのことである。

(たぶん、反証可能性、という難しい言葉で言われているのは、うるさい奴には面と向かってうるさいといいなさい、絡め手から締め付けるようなことをしても、システムが複雑になって事態が膠着するから、エコーチェンバーにエコーを足す徒労はほどほどにしときなはれ、ということだと思います。

「優雅な怠け者」には、うるさい、と指摘されたときの人間らしい適切な応対・礼儀作法だけ覚えてもらえばそれでよろしい。成り上がった「優雅な怠け者」が困るのは、往年の貴族と違って、マナーが悪いことであり、問題はほぼそれに尽きる。)