分断・友敵関係の正体

研究については「博士号以前」の透明人間であることになっているらしいので、私は音楽の話をする。

研究会→音楽会にケチをつける人間と、翻訳→海外音楽家の招聘にケチをつける人間は、等しく下らない。少なくとも(音楽会運営も呼び屋も)自分でやった経験がある人間は、そんなことしない。あるだけありがたいと思うから。

それはそうなのだが、実際に音楽会に行ってみると、「あれは何だったんだろう」「あの音楽家はあれでいいのだろうか」と考え込まざるを得なくなることがある。そして「あそこは、主催者が言うのとは違ってこういうことだったのではなかろうか/同じことを繰り返すより、次があるなら、ここはこういう風にしたほうがいいのではなかろうか」と思えてくる。いわゆるPDCAサイクルはそうやって回っていく。

とりあえず回せ/とりあえず事を起こせ、が、脱デフレ・スパイラルのカンフル剤・緊急指令として有効だったとして、それを継続して回す仕掛けをどう作るのか。

「とりあえず回せ/とりあえず事を起こせ」の自転車操業はなかなか疲れるものだし、そこで使い捨てられた経験がある者は、もう二度とかかわるものか、と、離れていくので、経営者は歩留まり率が損益分岐点を下回らない匙加減を考えることになる。

民間で一生やっていくとしたら、「火を付けた」その先が正念場だろう。

バーンスタインがニューヨーク・フィルやスカラ座やブロードウェイで「事を起こした」あとでミサを書いて、井上道義が京都で東京で大阪で、様々に物議を醸したその先でミサ再演に成功したのは、「理想の経営者」とは似ても似つかない仕方で、何かを私たちに告げている気がします。

(朝比奈隆と大栗裕は誕生日が同じでずっと一緒に関西で仕事をしていたが、朝比奈隆はカラヤンと同い年で、大栗裕はバーンスタインと同年生まれだ。)