少し前にこういうことを考えて、いまいちだと思って引っ込めたが、
テレビを灯けると強くて巨大な生き物が映し出されて、それに立ち向かうのがヒーローだという世界観で制作された物語が展開されていたが、あれをみた人は、最も大きく最も強い存在に立ち向うことを善しとする価値観を植え付けられるのが普通だったのだろうか。
ギリシャ神話の英雄たちも、ルネサンスの世俗的な勇者たちも、アルプス以北の神話から呼び出されたロマンチックな人物たちも、たいてい、そういうのではないような気がするのだが。
ひょっとすると、この島の映画で西部劇がチャンバラと掛け合わされたときに何かの化学変化が起きたのだろうか。
男の子ワールドの機微はよくわからないのだけれど、こういうのを正のヒロイズムと呼ぶとして、その反転で負けるが勝ちみたいな負のヒロイズムがもう一方にあって、みたいなことになっている、という理解でいいのでしょうか。
それとも、こういうのは、既に正負が衝突して平和裡に対消滅しているのでしょうか。
だったら、もういいんですけど。
あるいは、最近は、巨大なものと向き合うのではなく、(主にエコーチェンバーのような場所で)自分自身を巨大化するのが流行っているのかもしれませんね。視界に入るあたり一面が自分自身であれば、何に向き合うとしても(定義上、自分自身しか見えていないのだから)恐くない、と。
そういう自我にはなりたくないものです。