ヤンキー都市大阪vsネオリベ都市東京:大阪の「紙の文化」はどうなっているのか?

先日、バーンスタインのミサのロビーで、知り合いに「どうして大阪は不良っぽい企画が好きなんですか」と訊かれた。

なるほど、現在の大阪の民間ホールのオーナーや看板企画(とその旗振り役の人たち)の顔ぶれを見ると、大阪維新の政治家と似たような「ヤンキー感」が表に出ているかもしれない。

(この4、5年で急速に風向きが変わった感触がある。)

文化・アートが相変わらず公的補助頼みである現状ではそういうことになりがちで、それは、東京のクラシック業界の現在のネオリベ風味のイケイケ感が、石原慎太郎や小池百合子のキャラクターとどこか似ているのと大して違わないことだと思うのだけれど、そんな風に他人事として受け流すのではなく、ちゃんと事態を分析・診断したほうがいいのだろうか?

グローバリズムという圧力が加わったときに、大阪という都市では「ヤンキー魂」で切り抜けるのが最良であることになっているらしく、今の状況がその結果だと解釈できるとすれば、はたして、これはどこでどういう機構が作動しているのか?

(私自身は、先日のバーンスタインが「不良っぽい/ヤンキー的」とはあまり思わなかったし、その知人の質問も、いわば出会い頭の変化球でこちらの反応を引き出そうとする感じで、当人の意見なのかどうか、よくわからないところはありますが。)

[追記]

いま東京とか大阪がやってるのは、「いかにカネを使わないか」という打ち合わせに延々金をかけてるわけですよ。これは下に金が一切回らないで、そういうことを話し合う人たちにだけ金が回って、何も生み出さないわけですわ。

朝比奈隆が昭和30年頃、「東京には諸井三郎のような書斎の作曲家がいるが、関西の作曲家は劇場にいる」とインタビューで語っていたが、いまなお、昭和後期を生き抜いた高齢者を中心に、関西には、「なんとしても舞台の幕を開ける/舞台には決して穴を開けない」という気風があるように思う。

舞台人のエートスが、書斎や会議室でお金と情報を回す人々を出し抜き、実績をあげてきたわけだが、最近では、この気風が「ヤンキー魂」に変換して継承されようとしているのかもしれない。

橋下徹は真っ先に文楽協会を殴ったわけだが、関西の芸事の理念的・倫理的な規範としての古典芸能の弱体化が、「ヤンキー魂」を全面解禁してしまったようにも思われる。

武智鉄二を顕彰する事業ですら、今は関西ではなく東京の人たちの手で進められている。

グローバルなコンピュータ・ネットワークに接続すればローカルな場所は問題ではなくなることになっているが、むしろ、大阪にまともな紙の出版社(音盤や楽譜を含む)がない(そして有力な大学が大阪市内に残っていない!)、という情報化以前のインフラの不備のツケがジワジワ効いているようにも思われる。情報を囲い込みがちなのは、そういうサイクルに乗らずにやってきて、情報を外に開く利点がわかっていないんだと思う。

いいのだろうか……。

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