学位と人徳

ヨーロッパにおける学位もちの政治家の活躍を眺めていると、あたかも、学位授与制度が人徳と教養を備えた人材を選別認定する仕組みとして機能しているかのように見える。それにひきかえニッポンは……。

というつぶやきをみかけたが、円満な人格と幅広い教養を備えた人物にのみ学位を授与する、というような発想を止めちゃおう(そんなことをしていると60過ぎたジイサンしか学位をもらえないことになっちゃうから)というのが大学院改革だったわけで、その新制度化で学位を得て、高等教育機関での一定の仕事を得た者がそんなことを言いだすのは、アホちゃうか、という感じがする。

特定分野の専門家としてのスキルを認定するしくみとして学位制度があることは別にどの国でも変わるまい。付加的に、学位申請者が人徳と教養を備えた人物であればなるほど幸運なことではあるが、ヨーロッパがそうなっている(ように見える)としたら、それは、制度の問題ではなく、制度の周囲に幸運を引き当てる知恵が蓄積されている、ということだろう。

幸運を引き当てられるように制度を改革しよう、というのは、チート行為で手駒を豊かにしようとするゲーム脳の暴走だろう。

まあ、しかし、もうそんなことはどうでもいい。

たわごとを口走ることで人徳と教養がいまいちであることを日々露呈している人であっても、学位を得るスキルとそれに見合った仕事を割り当てられて、その仕事を十二分にこなせることは当然ありうるのだし、現実に、既に所定の仕事がその人物に割り当てられており、あと5年か10年は頑張ってもらわないと他に代わりはいないのだから、仕事をちゃんとやってくれたらそれでいいよ。

おそらく、幸運を引き当てる知恵がこの島に蓄積するとしたら、それは今すぐではなく、この先ちょっとずつのことで、わたしやあなたが引退した先の話になるのでしょう。

「かつてこの島には、学位というものに奇妙な付加価値を期待する者たちがいた」

というのは、あとで振り返って憫笑されるエピソードなのでしょう。