組織の合理化と「組織の顔」

組織の合理化でムダを省こうというデフレ・マインドの最終局面が津々浦々に浸透しているのが現在の状況で、組織の合理化とは、ヒトをマシンの部品として活用することだから、組織は、ヒトの集団ではあるのだが、集団としての「意志」をもつことはなく、何者かによって有効に活用されるべくまちうける道具・マシンになる。組織は、個体値のいいポケモンの揃ったモンスターボックスのようになるわけだ。

で、ポケモンはトレーナーが動かさないとただのコレクション、データベースだし、合理化された組織はこれを動かす「ボス」を求める。

東京のオーケストラが、外国人著名指揮者の招聘合戦に狂奔したのに続いて、大野、上岡、山田といった日本人指揮者を「顔」として担ぐ形になって、関西でも、京都は広上、兵庫は佐渡、大阪の音楽ホールは礒山/西村、大阪のオペラハウスは中村、というように監督・プロデューサーを担ぐ形で音楽団体が自らの存在を対外的に主張する状況になっている。

これは、ひとまず、世の動き(橋下や安倍や小池といった個人名が政治の関心事であるような)に沿っていることになるのでしょうか。

しかしそうなると、次に来るのは「個々のプロデューサーの善し悪し」がダイレクトに論評の対象になり、パブリックな審判を受けるフェーズだと思うのだが、音楽をめぐる言論にその体力は残っているのだろうか。