多元方程式:音楽劇と音楽分析の現在

音楽劇は、言葉(語り)と歌、音楽と演劇、意図と効果、創作と受容、構造と演出(修辞)、物語とドラマ、個人と集団、芸術と政治、といった数多くの変数が組み合わさった多元方程式のようなところがあって、そこが面白いし、そのことを知れば知るほどワクワクする案件だと私には思える。

今年は大学でバレエとミュージカルとオペラを並行して扱う機会に恵まれて、実演のほうでも関西で色々と貴重な公演が続いているわけだが、どうやら周囲の反応をみていると、現象が多元的であることを認めたくなくて、決め打ちで処理したい人が現状では相変わらず随分多いように思える。

いつまでたってもそうなので、正直もうウンザリしつつあるのだが、

このウンザリした感じをわかりやすく(ということは多元方程式にふさわしくない決め打ち方式で)言語化するとしたら、「日本(or関西)の音楽劇をめぐる状況は絶望的に停滞している」とか、「バカが音楽劇をやるとこういうことになる」とか、言ってしまえばいいのかもしれないけれど、「多元的な現象を一元的に統括したい衝動」というのも、「多元的な現象の擁護肯定」と対立しながら、日本(or関西)の音楽劇の変数のひとつを構成しており、バカがたくさん集まってくることは、むしろ、音楽劇という現象の一部なのかもしれない。

理系的なカシコ系がもうちょっといたほうがいいだろう、と暫定的に診断したいところではあるし、文系理系とか体育会系文化系とかといった擬制の対立が相変わらずこの島では悪く作用しているんだろうなあ、だから、文化芸術に、事態の多元的な取り扱いが苦手な人が多く集まっちゃうんだろうなあ、とは思うけれど、この奇妙きてれつな混乱は、何かの胎動のような気もします。

日本が敗戦後に再独立して数年間だけ鳩山のような人が首相だったごく短い時期に熱病のように創作オペラ運動が盛り上がって、そのあとにミュージカル・ブームが来るのも、同時代的には、混乱混沌(数年後にはほぼ「なかったこと」にされてしまうような)だったのだろうと思いますし。

ちなみに、音楽劇が多元的なのに対して、器楽は純音楽的で一元的な基礎の上に構築されている(だから「fundamental な分析」が可能である)、というのは怪しげな想定だと思うし、和声と旋律・主題法とリズムと楽器法・演奏法と形式とジャンル概念とサウンドと意図・標題と効果・受容……といった事柄が音楽のなかに多元的にうごめいていると見た方がいいはずで、作曲家・ソルフェージュ教師の小鍛冶邦隆がアルテス・パブリッシングでそのあたりを(日本語が崩壊寸前になるほどの切実さで)必死に語る一方で、音楽学者・音楽史教師の沼野雄司が音楽之友社で(面白おかしい講談口調で)分析の「fundamental」などと言ってしまうのは、新興出版社と組んだ国立音楽院のソルフェージュ教育の張り詰めた使命感と、既存の大手と組んだ私立音楽学校の音楽学講義の既得権の上にあぐらをかいて緩んだ態度の対比に見えてしまうので、かなりマズイだろうと思う。

音楽劇に「かしこ」が少ないのと、音楽理論教育に、国立なのに革新な人と民間なのに保守な人がねじれて存在するのは、たぶん、同じ時代の症状だと思います。

作曲の思想 音楽・知のメモリア

作曲の思想 音楽・知のメモリア

ファンダメンタルな楽曲分析入門

ファンダメンタルな楽曲分析入門

(「若者は自民党をリベラルな革新政党だと捉えている」といった報道がなされるのが今の世の中ですからね。)