東大法学部的なもの

大学院改革の過渡期に、新制度に乗ってまず博士号を取得した者と、旧制度を利用して博士号取得を待たずに研究職を得た者が併存したのは、要するに、過渡期だからそうなるのもしょうがないし、その後、順当に新制度が軌道に乗るにつれて、当初は「抜け駆け」的なメリットのあった「学位なし就職」を選んだ人がうまく立ち回れなくなっていくのも、制度がそういう風に変わっちゃった結果なのだから、まあ、そうなるだろうなあということでしかない。

博士号取得者がうまく動けるように制度が整備されていっているのだから、博士号取得者のほうが非取得者より成果をあげやすいのは、制度への適応/不適応という状態観察以上の何か(博士号を取得した者のほうが個体としての能力が高い等々)ということを意味しないだろう。

もしかすると、せっかく取得した(これからの人たちにも取得を薦めたい)博士号の「御利益」を喧伝するためには、「博士号取得を目指すことこそが、個体の能力を発現させる最良の生き方である」というようなことが具体的に証明できたほうがいいのかもしれないが、残念ながら、博士号取得者と非取得者のその後の研究者としての業績、というのは、そのまま直接、そうした証明の材料にはならないと思う。

(普通に考えれば、そうだよね。制度が博士号取得者に有利に設計されているのだから、そのバイアスを補正しないと使える統計データにはならない。)

リアルな個体の振る舞いとしてはそのように制度に最適化して生きている人たちが、観念的には、制度を越えて、超越論的な視座へ到達したかのように思い込みがちだ、というのは、兆候的ではあると思う。

柄谷行人が、東大法学部は官僚養成コースなのにマルクス経済学を教養課程でたたき込まれる設計になっていて、それが何らかの形で「日本的経営」の定着に寄与したのではないか、とどこかで言っていたように思うが、考えてみれば、それは別に「特殊日本的」なことではなく、教養主義というのはそういうものですよね。ヘーゲルを法学部で学んだ者たちがプロイセンの官僚になったのと、事態はほとんど変わらない。ヘーゲルがマルクスに代わり、さらにマルクスがアドルノや北米ポストモダン文化左翼に置き換わっただけだ。

たぶん、ポストモダンを語る大学教員、というのは、現時点では、かなり典型的に「官僚的」なんだと思う。