フォーレのオルガン、ドビュッシーのガムラン、ラヴェルのクラヴサン

ホルチャンスキーという学者が、ピアノという楽器には「オリジナル・トーン」の追求と並行して、他の楽器の「模倣」で表現の可能性を拡張しようとする傾向がある、と指摘したのは、さしあたり、ベートーヴェンに影響を与えたと思われるクレメンティなどロンドン派の意義を再評価するための仮説だったが、「オリジナル・トーンと模倣」という論点の射程ははるかに長いかもしれない。

ドイツの音楽は、19世紀後半から20世紀前半に不協和の解放、発展的変奏の徹底といった理論的・作曲技法的な成果をあげたが、こうした音楽のサウンドは幅広い聴衆の支持を得ているとは言えない。「特殊音楽的な論理」という絶対音楽風の理念は、ニュートラルで無色透明の「オリジナル・トーン」を磨く発想と癒着して、先細りになったのではないかと思う。

オルガンの伝統に依拠したフォーレ(やメシアン)、ガムランのような東洋・非西洋に待避したドビュッシー(やプーランクをはじめとするゲイの音楽家たち)、チェンバロ/クラヴサン風の浅いタッチで点描風のスーパーリアリズムを実現するラヴェルは、ピアノでちゃっかり他の楽器を模倣して(もしくは他の楽器のノウハウを盗んで)生き延びたと見ることができそうに思う。

20世紀のピアノ音楽の「拡散」(小岩信治)は、「模倣」(もしくは「盗み」)の肯定という半ば帝国主義風で、半ばポストモダン風な衝動に駆動されていたのではないかと、鍵盤音楽史でフランス音楽のことを説明しながら思う今日この頃です。