続・受肉の作法

2つ前のエントリーの続きです。

メシアン「アッシジの聖フランシス」(読売日響がそのように表記して以来、突如として各媒体がフランシスをフランチェスコと表記するようになったが、官公庁の発表ではないのだから、フランシスでいいじゃないか、広報に逆らうのはそんなに恐いことなのか、と少々鼻白むところだが)を見て、私が一番面白いと思ったのは、(面倒な話なので批評には書かなかったけれど)楽器法・和声法・リズムと音型の造形等が一体となって輪郭のくっきりした、あからさまに「主題的/記号的」な音型たちが、舞台上のドラマの進行とはほとんど関わりなく、唐突に出現することでした。

どうして、いまここで、この音型がこれほど圧倒的な存在感でオーケストラに出現せねばならないのか、まったくわからないまま、その音型が耳にたたき込まれる。しかも、ほとんどの場合、そうした唐突な記号の出現が、2度3度と繰り返されて、耳に擦り込まれていくんですよね。

で、我慢してつきあっていると、ドラマの進行とともに、次第にその唐突に出現した記号たちが「意味」と結びついていく。ああ、これは啓示のようなものを指し示す音型だったのか、とかいう風に。

(そもそも、プレリュードやインテルメッツォ風に何度も出てくるガムラン風のきらびやかな音のタペストリーからして、それが鳥たちの鳴き交わす様子であるらしいと意味づけられるのは、オペラ開始後2時間以上過ぎた第2幕半ばのことです。)

ワーグナーの楽劇では、舞台上の決定的な場面でオーケストラに印象的なモチーフが鳴り響いて、記号が意味と一体で「提示」されて、その後、ごちゃごちゃと「展開」されていくわけだから、メシアンのオペラの、先に音型(記号)があって意味があとから付与される、という順序は、ワーグナーのライトモチーフとは記号のあり方が逆だと言えるように思う。アッシジはパルジファルの向こうを張る作品だと言われるけれど、音楽劇としての記号作用はパルジファルの対極にたどりついている。ワーグナーに惹かれながら反発したドビュッシーの象徴主義のあたりから、カトリックの伝統を背景にして、フランスのエリートたちがしつこく丹念にノウハウを積み重ねて、1980年代というから、ワーグナーの楽劇から100年経って、ようやくリベンジを果たしたのがメシアンのオペラ、ということだと思います。

普仏戦争に敗れて以来、臥薪嘗胆、2度の世界大戦でアメリカやソ連の助けを借りてどうにか勝ち組の側にくっつき続けたフランスが、やっとのことでその音楽的・文化的なシンボルとレトリックを確立もしくは回復した、ということなのでしょう。

他方、三輪眞弘のモノオペラは、意味をワーグナーのように提示したり、メシアンのように生成するのではなく、ことが始まる前から意味作用を断念している。

現在はフォルマント解析によって「声」という人間ならではの「音」が普遍的・抽象的に情報化される時代である、という技術的・理論的な背景があって、しかしながら、そのような情報化が発動するためには、解析の対象もしくは「種」として、生身の人間の声が生贄に捧げられねばならない、というのがこの作品の骨子だと思いますが、そして、このシナリオは十全にプレゼンテーションされていたと思いますが、

ではこのようにプレゼンされるシナリオに何の意味があるかというと、意味付けはすべてフェイクである、という風に最初から明かされている。すべては実在しない架空の教団の儀式だし、その教団が90年代の新興宗教を連想させたり、ここで生贄に捧げられる主人公が酒鬼薔薇を思わせるのは、いわば撒き餌であって、舞台上のプロセスを現実と結びつける回路(記号と意味が出会う回路)は予め断たれている。

情報化されて鳴り響くものに重ねて、主人公はムシカを連想させる形而上学的な意味づけを語るのだけれど、1980年代にもなってワーグナーに本気で対抗しようとする老人作曲家の受肉の欲望とは反対に、そこでは、記号と意味が出会って、形而上と形而下が結びつくことが拒否されている。

これは、結局のところ、「負けるが勝ち」の戦後日本的な知的風土の極北のような気がします。はじめからそのような状態であるところに最後まで何も事件が起こらないのだから、これはドラマではないと思う。歴史というドラマの圏外にあることで繁栄した平和な戦後ニッポンという気がするし、主人公が生贄として特攻するのは虚無だと思う。

音楽は生贄・特攻という特異点である、などというエリート主義は、ダメでしょう。それではまるで、三島由紀夫の自己愛だ。