様々なドミソの和音

便利な道具として「グローバル」(?)に使用される英語と、原書の翻訳者が知識とわざを総動員して取り組む英語(もしくは「英語→日本語変換」と呼ぶしかない営み)と、文学者や哲学者が精読する英語は、ほとんど別の言語かもしれないけれど、それでもそのすべてが「英語」と呼ばれることにはきっと理由があるだろう。

今ではおそらく地球上のかなり多くの地域のポピュラー音楽でドラムセットのビートにのせて鳴り響いているのであろう C major のコードと、ドビュッシーの異国趣味作品や日本のフランス派洋楽で鳴り響く c + e + g のサウンドと、ヘンデルのオラトリオやモーツァルトのシンフォニーの C-dur(あるいはモンテヴェルディのモノディー様式オペラで通奏低音にc音が指定された箇所のレアリゼーション)は、全部別物だが、全部「ドミソ=ハ長調」だと名指されるのと何かが似ている。これらの「ハ長調」のうちのどれがグローバルであったりローカルであったりグローカルであったりするのか、私はその種の用語の作法に詳しくはないし、そのような分類を誰がどれくらいの切実さで求めているのか、いまひとつよくわからないのだけれど。

(増田聡先生の周りに集まっているようなゼロ年代風ポピュラー音楽研究者だったら、嬉々として、どれがグローバルでどれがグローカルか、というおしゃべりで一晩酒が飲めたりするのかもしれませんし、そういう飲み会こそがミュージッキングである、という屁理屈によって文化的ファシズムが進展することに、人はそろそろ飽きていると思います。)