脳力の限界:誰が日本のリチャード・タラスキンたりうるか?

昨年の日経批評欄の年末回顧では、バーンスタイン「ミサ」とメシアン「アッシジ」が相前後して上演されたのが関西の2017年の最大のトピックだった、という括りにさせていただきましたが、関西ではなく「日本の2017年」というスコープで考えるとしたら、京都賞に作曲家(ケージやクセナキスやブーレーズ)でもなく演奏家(アーノンクール)でもなく音楽学者のタラスキンが選ばれたこと、そして、京都の稲森財団の事業なのに、ほぼ関西の音楽シーンには一切介入することなく、タラスキンのワークショップが東京芸大でいつの間にか行われて終わっていた、というのが、同じくらい大きな不可視の事件かもしれないと思います。

タラスキンは「幸運」の重要性を講演で語っていて、ロシア移民の息子がムソルグスキーのオペラ研究からキャリアをスタートしているのだから、もし、タラスキンの業績を「意識高い系」な感じに、わかる人だけがわかればいい貴重な輸入品として東京で消費するのではなく、「日本のタラスキンを目指す」という生産的な構えで事態に対応するとしたら、タラスキンを日本で「反復」(と敢えてポモ風に言ってみる)するスタートラインは、トーキョのアカデミックな音楽文化のナショナリスティックな顕彰ではなく、関西の大栗裕をめぐって「8つのエッセイ」を発表する、とか、そういうことになるんだろうなあと思う。

(関西の衰退するどころかますます頑迷になりつつある内向きの身びいきは、いわばムソルグスキーを人民愛の人とみなすスターソフ・イデオロギーに関西全体が凝り固まっているようなものですからね。)

わたくしは既に50を越えておりますので、次世代以後にこのミッションを託す所存。わたくしの課題は、いかにも関西っぽく諸々が絡み合って面倒なことになっているこの作曲家に関する資料を、次世代以後に降臨するであろう「日本のタラスキン」のために、まっとうに利用できる状態までもっていくことくらいであろうと思っております。

東京の「意識高い系」が関西を完全に見限った、要するにそれが日本の2017年の核心ですよね。だとすれば、まあ、それくらいしか、できることはありません(笑)。

メシアンとバーンスタインは、制度的救済から見放された者にこそ天使が舞い降りる、という判官贔屓風のメシアニズムの20世紀ヴァージョンであり、だからこそ、「見放された関西」で2017年に上演され、一定の感動と共感を生んだわけですが、タラスキンという幸運が身をもって示すのは、「見放された者たち」(大衆資本主義的もしくは人民社会主義的な新体制イデオロギーの支配下で人気を保ちつつアカデミズムから見放されていた帝政ロシア)に誰がいつどのようにアプローチするのか、という知のモラルだと思います。そして東京の「意識高い系」音楽知識人たちは、見放されて仕方のないものを「見放す側」に立ち、まあいわば、悪役を買って出たわけだから、ええ根性しとるわけですな。

手順をつくして日本とのコネクションを築いてきたコンヴィチュニーを見限るような関西には鉄槌を食らわすべし、みたいな思いがあったのかもしれませんが……。びわ湖ホールで若手受講生として動いていた佐藤美晴が、今回のタラスキンのワークショップでは演出を担当していたようですし。長木誠司さんは、実に明快に「問題提起」する人ですね。

2017年の夏には片山杜秀がサントリーのバックアップで大澤壽人を「日本におけるボストン派」として喧伝して、秋には長木誠司が稲森財団の軒下を借りて米ソ新体制の「短い20世紀」を奇跡的にすりぬけてしまった音楽知識人リチャード・タラスキンを顕彰して、年末には伊東信宏があいおい同和損保の音楽ホールで音楽における三島由紀夫の精神的継承者と言うべき三輪眞弘のオペラを上演した。

武満徹あたりがセゾン文化の一翼を担って華やかに活躍した70〜80年代に音楽に目覚めて、吉田秀和に後を託された朝日新聞系(であると同時になんとなくアルテス・パブリッシングの策謀の影が見え隠れする)音楽評論家の皆さんが、大きな成果とともにその限界を見せて、ひとつの区切りのついた一年になりましたね。

いずれも、日本にマークシート方式の共通一次/共通テストという究極の知の平準化(ゲーム化)が導入される以前の教育で育った最後の世代であり、その歴史的な位置にふさわしく、それぞれに立派な人生をまっとうしつつある方々だと思いますが、でも、どうやら、彼らは「日本のタラスキン」とまでは言えないと思う。ひょっとすると、吉田秀和はそれを期待していたのかもしれないけれど……。

タラスキンには、確かに人脈的・時代的な「幸運」があったけれど、その運を掴むことができたのは、フィールドに目を配り、アーカイヴを駆使する地力があったからだろう。

日本の音楽学は、現在に至るまで、そうしたインフラが絶望的に脆弱だし、プレ共通一次世代の「旧人類」は、決定的なところでエゴや精神を優先して、ものと事実の力(その具現化としてのメセナ=経済力)をエゴや精神のサポートにのみ利用しようとする。セゾン文化への憧れから脱却できないヒロイズムの限界と言うべきだろう。

だから、彼らの活躍する磁場では、あたかも脳が人体を統御するかのように、場の「中心」(として言論を司る者)は常に単一であり、周囲は手が出せなくなる。NHKの特集によると、人体を脳が統括するという見方は克服されつつあるらしいのにね。