Wissenschaftlich gefasste Erinnerung

ダールハウス(たぶん「音楽史の基礎」だろうけれど)の出典を確かめられてはいないけれど、タラスキンは京都賞の受賞講演でこの言葉を使っている。YouTubeでみることのできる同時通訳はちょっとアタフタしているけれど、「歴史とは知的につかみ取られた記憶である」という訳になるでしょうか。

(そしてピアニスト、チャールズ・ローゼンが「音楽と感情」の終章で言う Obsession は、20世紀初頭の作品群から「音楽的につかみ取られた記憶」を読み取る試みということになるでしょうね。18世紀の西欧流啓蒙主義(音楽の一般理論)を20世紀の米ソ新体制下の common practices に直結させる「fundamental」(笑)な音楽分析では、このあたりがごっぞり抜け落ちることになりそうだが……。)

そしてしかし、他方に「すべては偶然 chance である」という認識があって、歴史という知的につかみとられた記憶=物語(流行り言葉で言えばナラティウですか?)は絶えず相対化され続ける。

そういう枠組でタラスキンは自分史を語るわけだけれど、なるほど、人は、自ら望んでユダヤ人の息子に産まれるわけではないし、思春期の絶好のタイミングで鉄のカーテンの向こう側にいる親戚との交流・文通をスタートするという chance はそう簡単に訪れるものではない。

日本の音楽言論人で、chance に恵まれて、それを知的につかみとって語っている人というと誰だろう?

柴田南雄は、chance というより、そういう環境に生まれて、だからエコロジカルに心が澄み渡っている感じだし、吉田秀和は、何かを「知的につかみとる」能力に長けているけれど、そこまで大きな当たりくじ(chance)を引いてはいないし、自らの引きの弱さを知的に自覚していたように思う。

そしてこの「引きの弱さの自覚」を人脈的に継承してしまったところに、90年代以後の「吉田秀和賞」系統の音楽批評の弱さがあるんじゃないかという気がします。

(阪大の卒業生で言えば、やっぱり、岡田暁生や伊東信宏より、中川真のほうが大きなくじ(chance)を引き当てていると思う。白髪の大物名誉教授になるところまで順当に chance を育てたと言えるかどうか、微妙かもしれないけれど。)