大衆とテクノロジー

テレビを話の枕にするポピュラー文化研究のお作法のまねをすることになりますが、

2017年のドクターXは、シリーズとしての完成度を高める職人技に感心する一方で、最近話題のAIがスターウォーズ風の「ロボット」として登場したのは、既に老人向けメディアになって久しいテレビの限界なのかなあ、と残念だった。

出版とアングラ文化運動の親和性、流行歌/流行歌手の取り扱いにおける映画とテレビの差異、カラオケとノスタルジー、歌謡の情報社会的データベース消費(検索・コピペetc.)はなぜ戯画的に堕落するか? 等々、音楽をとりまく様々な行動(ミュージッキングですか?(笑))のメディア特性がテーマとして浮上して不思議ではない討論の場で、登壇者がそろいもそろって、MicrosoftやAppleの手先みたいにパワーポイント/キーノートでお茶を濁して紙の資料等を一切配布しなかったのは、現在の大学の人文学が、アラフォー中年(パソコンとAV器機が大好きな)に向けた週末の午後の serious leisure (←覚えた言葉を早速使う!)に成り下がっていることを示すのかも知れない。

20世紀の大衆文化、そして20世紀にふさわしかったのであろうグローバルな知の提案としての民族学・人類学は、いずれも、旧来型のアートとは比較にならない規模と広がりで、ニューメディアを活用したわけですよね。

(20世紀型の間接民主制という「新体制」は、ニューメディアとハイテクなしには不可能なしくみなのだから、当然といえば当然かもしれませんが。)

写真・蝋管蓄音機にはじまって、民族学者・人類学者はその時代ごとの最新機材を使いこなして成果を出している。ちょうど、手先が器用じゃないと医者(外科医や歯科医)になれないように、ハイテクをのりこなす才覚がないと、民族学や人類学はやれない。そういうものだったように思います。

そういう積み重ねがあるからこそ、ベルリンのダーレムや万博後の大阪千里にあるような20世紀後半の人類学のミュージアムは、旧来の美術館(アートの神殿)を乗り越える新しい博物館の形を提示することができたのだろうし、

現在の日本で、電子音楽に関する資料調査と啓蒙活動で最も優れた成果を出している人の本業がお医者さんなのは、たぶん、偶然ではないでしょう。

(そして学会のホスト役になった同志社女子の教授先生は、阪大時代にPC98の前に終日貼り付いていたりして、たぶん器用ではないけれども、根性で時代のハイテクにしがみつく人だったから、おそらく、今もそのように機材の面倒を引き受けているのでしょう。昨日の会場での行動を見る限りでは。)

一昨年くらいまで、聴覚文化論と称して、音楽と知覚とテクノロジーという問題系がそれなりに流行りそうな気配があったのに、あれはどうなったのでしょうか? ジョナサン・スターンのように妙にけばけばしいのに拐かされてしまった失敗体験、たった一度の挫折でへなへなと崩れ落ちる程度のものだったのでしょうか? キラキラと揶揄された程度でへこたれてどうするか、という話でしょう。

先のドラマでは、

「患者に寄り添うだけでは病気は治せないよ」

なるハードな台詞がありましたけれど、

大衆文化論が、大衆への愛みたいな優しげで思い遣りにあふれる「内容/コンテンツ」をどれだけ備えていたとしても、それだけではダメに決まっている。

「こたつ産業」という言葉があるそうですが、大学のアラフォー先生たちが茶の間でテレビを眺める周囲1m四方をどれだけ快適にしたって、それだけでは、20世紀の大衆文化には届かない。

たしかに「演歌」という表象が1970年代の家庭の茶の間にテレビを通じて届けられたけれど、そのようなテレビ的表象は、そこで完結しているわけではない末端/端末だったわけですよね。