中堅大学教員による情報統制の閉塞感

増田聡とその仲間達には、何かを面白く物語る能力が決定的に欠けている。問題、問題、と言い募るだけではうっとうしくつまらない、という局面が到来することに気付いていないようだ。

今の若い人たちは、大して面白くはない物語が飽和して出口がない状態で溺れているように見える。

ところが、問題・問題で頭がいっぱいの中年層には、陳腐な物語に溺れる若者達に手をさしのべるための基礎体力がない。さしずめ、人文知の不幸とはそういうことだろう。

(物語る能力について誰かがおずおずと語り始めたとたんに、「それはヘイドン・ホワイト問題だ」と吉田寛がこれを官僚的に問題化して潰しにかかる、というような内ゲバが続くようでは処置なしである。そもそも、岸という立命館の新任教員が紡ぐお話たちは、本当に面白いのか。芥川賞の選考では箸にも棒にもかからなかったようですが(笑)。)

タラスキンが長い長い音楽史の物語を紡いで、「文学伝統における音楽」を打ち止めにしてしまった先には、そういう光景が見えている。

ビジネス話法よりも、むしろそれに抵抗しているとされる人文家の「問題提起」話法のほうが、いわゆる「戦時中の軍人のアジテーション」に似ているんだよね。

学位を配給する権限を握って若者のキャリア形成・生殺与奪の鍵を独占する大学教員は、ちょうど、かつて紙の配給を差配して言論を統制する軍人たちがそうだったように、公然とつまらんことを言っても許されているわけだ。

國學院を出た高校教師を父にもつ増田聡が人文青年将校の最右翼として振る舞うのは、実に象徴的な2018年の風景である。