討論の作法

一連のエントリーで書いたことの概略は、既に先の学会の最中にシンポジウムを聴きながら考えたことである。(斎藤さんの著書を持って行っていたので、本の余白に書いたメモが残っている。)

映画で知る美空ひばりとその時代 〜銀幕の女王が伝える昭和の音楽文化

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シンポジウムの最後にフロアからの質問を受け付ける時間があったが、そこで発言しなかったのは、既に時間が延びていて私もさっさと帰りたかったのと、2人目の質問がぼんやりした内容で、いかにも、これでもう終わり、という空気になったのと、司会の輪島祐介の口調のハシバシが好戦的で、こんな司会者が取り仕切る場で質問したら紛糾して生産的な話にはならなさそうだ、面倒くさいと思ったからである。

それに、登壇者のうちのお二人は非会員のゲストであり、わざわざお時間を割いてくださっていることに礼を失しない振る舞いはいかにあるべきか、ということも考え合わせねばならないだろう。(この点では、増田が異種格闘技風に食い散らかして「お客様にたいする失礼ポイント」が既に十分に高くなっていたわけだから、負債をきちんと返して残り数分できれいに会を締めくくるのは難儀なことだったと思うし。)

先に「朝ナマ」みたいだ、と形容したが、かつて文芸誌をにぎわせたような「座談」には座談の作法があり、研究会の討論には討論の作法があり、テレビショウの異種格闘技風のライブには異種格闘技ライブの作法がある(と私は思う)。増田聡は、司会の輪島がある方向に話を進めようとすると、それをさえぎって自説を展開したり、自分から誰かに問いかけたり、というように異種格闘技ライブの作法で振る舞っており、その態度は、例えば斎藤が体現していたような研究討論の作法とは違いが際立っていた。

端的に言って、私は異種格闘技ライブの観覧チケットとして日本音楽学会の会費を支払っているわけではないし、周囲が研究討論のつもりで準備して登壇している場で、ひとりだけ異種格闘技ライブを演じて、どうだ参ったかと周囲をマウンティングしたとしても、そんなものは、本物のチャンプではないと思うし、研究討論の限界を突破した新展開でもないと思う。

研究討論の場は、「空気を読む」のとは別の仕方で淡々と適切にコメントすればそれでいい、という作法で臨むのが通例だろう。

しかし、司会者の態度と、フロアの質問から推察される期待値と、残り時間とを考えて、ここで何かを言っても無駄打ちになると思えば、黙って帰る権利は誰にでもあるだろう。

そういう風にならないためにはどうすればいいか。

研究の活性化を求めるのであれば、この寒々とした状況を直視するところからはじめるしかあるまい。

Q. As usual, you don't shy away from contention. I don't think anyone will call this an objective history. How, as a historian, do you stand on the matter of objectivity?

A. There are contentious aspects to the way I tell the story, but I actually don't believe the term ''objective'' is without meaning. I try to write nonpartisanly. But if you raise social questions, you're accused of partisanship. I don't actually take a side in many of the debates that I report, but I do report them.

CLASSICAL MUSIC - DEBRIEFING - A History of Western Music? Well, It's a Long Story - Interview - NYTimes.com

Q: 客観性に関して、歴史家であるあなたはどういう立ち位置なのでしょうか?

リチャード・タラスキン:私の語り口には論争好きな一面があります。しかし私は「客観性」が意味を失ってはいないと信じます。私は無党派的に書こうと試みました。それでも、社会的な問題が起きれば、党派性を糾弾されるでしょう。私は、自著でたくさんの論争を報じました。こうした論争で、私は特定の側に加担しません。それでも、その論争を報じます。