【表象文化論】蜘蛛の糸はどれだけの重さに耐えられるのか?

私は前から言っていますが、研究者を志望する人は「上だけを見る」ようにしてください。世代や国を問わず「自分よりも優秀な人」だけを常に意識して、切磋琢磨してください。他方で「底は抜けている」ので「自分よりも下」がどれだけ多くても、研究者になるための競争では、まったく意味をもちません。

天から垂れ下がる蜘蛛の糸を伝ってあがるカンダダがいて、それを見て我も我もと後を追う人々がいる。おそらくこの発言は、そうした状況にいる大学院のカンダダたちへのアドバイスなのだと思う。

開かれた世界が「上」にあって、「私(たち)」は閉ざされて底の抜けた世界であがいている、という世界認識も、ヨーロッパと中国を仰ぎ見る帝国大学の秀才、芥川を正確に継承・反復している。

芥川龍之介はシニカルな無神論者で、第一次世界大戦後の大衆化に当惑して、その戸惑いを寓話にするところで終わった人だから、蜘蛛の糸はそれほど大量の人々に耐えられるだけの太さはない、という設定で物語を進めた。

吉田寛はカトリック信者で、90年代からゼロ年代のビデオゲームの隆盛の延長で情報社会が臨界点を超えるシンギュラリティを(おそらく)信じているので、蜘蛛の糸は切れない(少なくともあなたたちが「上」に到達するまでは大丈夫)と想定している。

  • 一本の糸=単一共通のルールかつ全員一斉参加

というのは、ひょっとすると20世紀的に過ぎるかもしれないなあ、と思いますが、もうひとつ、

  • 上に開かれた楽園があり、下に閉ざされて底の抜けた奈落がある

という世界観は、ひょっとすると、イエスでもブッダでもないし、「叡知」と「僧院」を結びつけるのは、案外、90年代以後というより、バブルと記号論の80年代かもしれない。

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増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)

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さらに、2010年代に狂い咲きした「中国化」という名の科挙と儒教の再評価(「嫌韓」や「沖縄」も中国をあわせて考えないと間違いそうな感じは確かにある)とか、そういうのも混じっているかもしれませんが……。

中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」一千年史 (文春文庫)

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いずれにせよ、広場(アゴラ)のメタファーを僧院に対置できるところまで鍛えるのを諦めた、ということなのかなあと思う。

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これが80年代であれば、70年代に入ってもなかなかなくならない学生運動/ヒッピー/デモ/企業テロ/内ゲバetc.にうんざりして広場に背を向けて、高い塔と洞窟の物語を好んだのは、わからないではないけれど。

立命館の茨木キャンパスは大学を街に開くデザインになっていて、秀吉の町割が基礎になっている大阪の北浜、谷町筋のあたりは、たしかに、江戸以後に開拓されたキタ・ミナミとは違うノリで最近いい感じみたいですけどね。

(「プリンセス・トヨトミ」の万城目学はそのあたりで育っているし、「夫婦善哉」は梅田新道のボンボンと曽根崎新地の芸者=キタのモダンな風俗で浮き沈みする人々の話だが、上町生まれの織田作之助は彼らを御堂筋には行かせない。大阪から出たくない、と語る立命館の岸氏は、大阪の「発見者」ではなく、何度となく反復されてきた大阪語りのフォロワーのひとりに過ぎない。)

どうやらこの世界には底の抜けた場所があるらしい、というのはそうだと思う。

でも、社交と教養を会得した者にとっては(←結局ここが大変だから高等教育機関があるわけだが、そこできちんと教育を受けた者にとっては)「内」と「外」にそこまで深刻な標高差はない、高さのメタファーは過剰なフィクションである、と言い切っていいんじゃないだろうか。

信仰は信仰としてあっていいけれど、知性は、たぶん、高さを競うゲームではない。

Music from the Earliest Notations to the Sixteenth Century (The Oxford History of Western Music)

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タラスキンは五巻本の西洋音楽史を英国経験論の人フランシス・ベーコンの引用で書き始めている。(……と、自分より「上」の人で作文を締めくくってみた。)

[追記]

ただし、現在の日本の中堅エリートが「上」と「下」の比喩を内面化してしまうのは、「上」を見れば解消することではなく、彼らが教育を受けた「進学校」のいわゆる「スクール・カースト」的な風土をオトナになっても十分に相対化できていないだけのことなのではないか。学校が大好きなオトナたちの未成熟、という「低い」話に過ぎないのではないか、という疑念を私は最近強く抱いているのですが。

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超一流の先行研究(「上」)を見事に使いこなす研究者の語り口から垣間見える物語的・文学的前提が、研究とは裏腹にかなり通俗的なところに収まってしまう、というのは、「サラリーマン化する大学教員」(大学教員は下流/上流の分断に「中流」「凡庸化」で対抗する)というよくある症状かもしれない。

凡庸な芸術家の肖像 上 マクシム・デュ・カン論 (講談社文芸文庫)

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1980年代の蓮實重彦は、そのような「凡庸」こそが「現代」だ、と考えて表象文化論を立てたわけだが、そのような「凡庸」はもう批評的に作用しない。「凡庸なる現代」が一周回って再帰的に知識人のアイデンティティを形成して制度化され、大学教員が学生に「上を目指せ」「高さを競え」と言うようになっているとしたら、そろそろ、20世紀的 representation (ほぼそれは東大教養部的教養」とでも言うしかないものかと思う)の可能性と限界を本格的に検証する頃合いですよね。