なぜ事実を茶化してはいけないのか?

「事実」はデータから構成された仮説として得られる、というのは、ほぼ現在では多くの人の一致する見方だと思うけれど、これは、事実が「構成された仮説」=人工物・作り物であり、自然ではないからいいかげんに扱って良い、ということにはならない。

「事実」という特異な項目を立てることで、観念論と唯名論の果てしない争い(もしくは宗教的信念と世俗的批判)は辛うじて平衡を保つ。

「事実」を軽んじる者はイデオロギーの餌食になるか、さもなければ、言論の煉獄で燃え尽きることでしょう。

知性 science に「理系」と「文系」の区別があって、前者は事実の領域、後者は解釈の領域を扱う、という俗説がダメなのは、そこが見えていないからだろうと私は理解しています。高い塔を築くのが好きな人や果てしないストリートファイトが好きな人が競技に夢中になるのは当人の自由だけれど、それが高等教育の主たるミッションであるかのように言われると違和感がある。

(「表象文化」という卓抜な提案や情報社会への投企は、この構造の見通しをよくしたり、実装のアップデートであったりするかもしれないけれど、この構造自体を脱却しているとまでは言えないと思う。)