無限の多様性と幸福の総量

価値が4と6のものを、0と10と認識するのは非常に大雑把だけど、5と5だと認識するのも真実ではないよね。

回路が通電するかしないか(on = 1 / off = 0)の区別を基礎にして計算を進める機械を使用するのであれば、4 と 6 の関係を補足するときには、 4 と 6 の差が正か負かという判断から出発するのが効率がよさそうで、「価値が4と6のものを、0と10と認識する」とはおそらくそのようなアルゴリズムを指しているのだろう。

一方、近代が「人間」をどう取り扱ったかというと、「仮にすべて同値だと仮定するとどうなるか?」とやっていって、矛盾が生じたところに関してのみ、これは同値ではない、と背理法風にマーキングしたんだろうと思う。

現行の計算機械をフル活用するときには前者の径路で進む方が効率がいいだろうし、「人間」のつきあいでは後者のほうが幸福の総量が多くなりそうで、だから、上の引用は、効率を取るか幸福を取るか、みたいないつもの話に決着を付ける決定打というわけではなさそうに思う。

ただし、最近の「人間たち」は、上記の平等ベースのリベラリズムが破綻しつつあることを悟りつつあって、むしろ、「すべての個体は異なる、と覚悟せざるを得なさそうだから情報処理技術をフル活用すべし」という方向に既に舵を切っているのではなかろうか。

だから、計算機械を真似た語りで「人間」をdisるデジタル・キッズも、そろそろ、「平等」をターゲットにするより、「多様性」をターゲットにするほうがいいんじゃないか。

「価値が4と6のものを、5と5だと認識する」のスローガンで野党共闘を模索した政治家たちが選挙で大敗したのは、既に「去年」という大昔の話じゃないか。