劇場・報道・批評

具体的な批評作文はこれから考えますが、先週末のびわ湖ホールのワルキューレを2日観て、この劇場は本格的に機能しはじめたなあと思った。オペラは洋楽受容という文脈で日本に入ってきたので長らく(制度や興行としても言論での取り扱いとしても)「音楽」の一ジャンルと扱われてきたけれど、びわ湖ホールや新国立劇場ができたあたりから潮目が変わって、ちょうど、バレエが音楽と舞踊の交差するところに独自の領域として存在しているように、歌劇が文学と音楽と演劇の交差する地点に独自に動き出しつつある感じがしました。

プロジェクション・マッピングは、(液晶ディスプレイにおけるCGといったビデオ・ゲーム等で主流の技術と隣接しながらも別の技術として)劇場空間で独自に急速に発展しつつあるようで、この技術を手にしたのが具体的には大きなことかもしれない。

あと、滋賀の大津の劇場が、関西圏のようでありながら中部や関東とのつながりがしっかりあって、鳴り物入りのスター主義とは違う形で外国の劇場とのつながりをしたたかに作りつつあるからワーグナーをこういう形で上演できているんだろうなあとも思う。

(考えてみれば、今は大阪フィルとかその競合在阪オケは「大阪の」オーケストラということになっているけれども、こちらも、実態は「大阪生まれの大阪育ち」という風にはなっていないですしね。)

なお、日経大阪版の音楽評を私が担当するのは3月(先の藤村実穂子評)でおしまいです。

昨年の年末回顧記事(これは全国版に出た)で、東京の読売日本交響楽団がそのびわ湖ホールでやったメシアンが関西のどの公演より良いと書いて、もう、「関西在住の音楽家による公演」なるものに固執するのは意味がないんじゃないか、と思い始めているタイミングでしたので、ちょうどいい頃合いではないかと思います。

また、音楽クリティック・クラブという親睦団体に2001年に入れていただいて今日に至っていますが、こちらには現在休会を申し出ています。

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1962年というタイミングで関西在住の「音楽評論家」を自任する人たちがこのような形で団体を立ち上げた経緯(同グループは現在1974年設立と称していますがこれは会則を決めた時期で、実際は関西音楽新聞1962年10月20日号に結成を報じる記事があり音楽賞をこの年から出しています)からその後の展開、現在のありようまで、それなりにその意義は理解しておりますが、現状では、「関西在住の音楽評論家」という概念が実質を失いつつあると私は認識しています。

社会的に意味のある団体として存続するためには、周囲からギルド的に扱われている状況を活かして本当に仕事ができる(若手中堅主体の)事実ベース・取材ベースで仕事をする音楽ライター集団に内実をシフトするか、さもなければ、音楽評論家という名目でやってきたことの延長で「音楽評論家」を名乗る者であるがゆえにできることを(関西以外の批評シーンと何らかの形で連携しながら)明確に打ち出すしかないと思いますが、どうやら、世の中が動くときこそ、じっと動かずに既定路線で現状維持、というのが現メンバーの大半のお考えのようで、わたくしとしては、つきあいきれないので距離を置くことに決めました。

(ただし、団体の性格を変えていくことに皆さんが同意したとしても、わたくし自身は「音楽ライター」的な仕事ができる人間ではありませんし、「生涯評論家一筋」と思い定めて「批評」の未來と心中するような生き方をしているわけでもありませんので、皆様におかれましては、わたくしの預かり知らないところで今後を模索していただければいいのではないかと思っております。)

京都新聞の批評は続きます。わたくしを1995年に最初に「音楽評論家」とクレジットしたのはこの媒体ですので、この仕事が続くかぎりは、「音楽評論家」ということでいくことになるかと思います。

音楽クリティック・クラブは「関西在住の音楽評論家の親睦団体」と自らを会則で定義しております。別に、この団体(会員の推薦を得て入会、という手順になっています)に入っていなければ音楽評論家ではない(「関西で誰が音楽評論家であるかどうか、ということをこの団体が格付けする」)というしくみではないはずですから。

(伊東信宏さんは音楽クリティック・クラブの会員で「音楽評論家」を名乗っていて、他方、岡田暁生はこの団体とは無縁で、批評を書くときにも「音楽学者」を名乗っている、というように、ある世代までは、音楽クリティック・クラブが何らかの形で「尊重」されていた気配はありますが、もういいでしょう。

かつては、関西で「音楽評論」をやるときに音楽クリティック・クラブの有力と目されるメンバーに手土産をもって挨拶にいく、というようなことが行われていた形跡がありますが、これも彼らがそれを求めたというより、周囲がそういう風にしたほうがいいのだろうと空気を読む/忖度する、ということに過ぎなかったようで、わたくしはそのような作法を経て音楽クリティック・クラブに入ったわけではありませんし、もちろん、誰かからそのように「挨拶」されたこともございません。)

[追記]

関西の「音楽評論」の歴史は、まだ誰もちゃんとまとめてはいないし、戦前のことは私も(まだ)よく知りませんが、1962年の音楽クリティック・クラブ結成は、おそらく1950年代に朝比奈隆グループ(関西交響楽団と関西歌劇団)が関西楽壇を席巻して、朝日新聞社が1958年に大阪国際フェスティバルにスタートする、といった動きと何らかの形で連動した音楽言論人のリアクションだったのだろうと思われます。

朝比奈グループ、特に武智鉄二を演出に起用した創作歌劇は関西の新聞等を巻き込む大騒ぎになりましたが、その時点の関西の新聞では公演評を新聞記者が書いていました。「音楽之友」のような東京の音楽雑誌の関西の消息を伝えるコーナーも関西の新聞記者が書いています。

文化人・音楽ジャーナリスト・音楽関係者等が、このように新聞記者(ほぼ全員が武智のオペラに批判的だった)に制圧された「マスコミ」とは違う意見を発表する場としては、当初は、関西音楽新聞のような公演主催団体のPR紙くらいしかなく、あとは、戦後新たに創刊された「音楽芸術」が「音楽之友」とは違う書き手を探しつつあって(のちに「音楽現代」を創刊した中曽根松衛が「音楽芸術」で活発に動いていた)、上野晃などは主にこちらに書いています。

また、大野敬郎は大阪労音幹部出身、小石忠男は神戸のラジオ放送局出身、日下部吉彦は朝日新聞から朝日放送に移った音楽プロデューサー/テレビの報道番組パーソナリティ出身で、このように見ると、新聞記者が批評「も」書く、という体制の外部から出てきた言論人によるパフォーマティヴな批判という機能が関西における音楽評論家グループの結成以来のアイデンティティだったように思われます。

(朝比奈隆は、関西交響楽団と関西歌劇団を切り盛りする過程で新聞/マスコミの弾幕の一斉射撃を浴びて、評論家・文化人という別の審級がなければそのまま沈没していたかもしれない時代をくぐり抜けていたわけで、晩年まで「音楽評論家」に敬意を払っていたと聞きます。私が大阪の音楽評を書くようになるのは朝比奈没後なので、直接何かを体験したわけではないですが。)

その後も、新聞社(記者クラブ)との関係、東京の全国規模の音楽ジャーナリズムとの関係で一定の存在意義を確保する、というのが、音楽クリティック・クラブの役割でありつづけていたように見えます。

でも、新聞や音楽雑誌の役割や意味合いが変われば、このグループの意味もかわっていかざるを得ない。

(現在では、(関西でも)広報・マネジメントを仲立ちにして実演家と報道機関が仲良くタッグを組んで興行を打つ枠組が急速に形成されて、いわば、パフォーマーと情報メディアの共同体が「公衆」を共同統治・共同管理しようとしているように見えます。そのような環境に、批評の場所はたぶんないでしょう。「歌劇」という情報誌を劇団が自前で出す宝塚歌劇のような自給自足の娯楽産業システムが、関西(とりわけ「維新」のお膝元で公的助成に頼ることのできなくなった大阪)では、興行全体に適用されつつあるように思われます。)

[例えば、現在では音楽評論家に「報道資料」と銘打つ文書が届くことが日常化しており、公演にご招待いただく場合も、所定の用紙に「所属団体」なる項目を記載するフォーマットが標準になりつつあります。批評というのは、所定の「団体構成員」として執り行う業務ではないわけですが(笑)。]

いずれにせよ、なんとなくありがたがられている人たちが「挨拶」や「忖度」で業界の片隅にいる、という風なイメージは、事実というより思い込みを多分に含む副次的な事柄だと思いますし、わたくしは、そのようなイメージを身にまとうつもりはないので、そのような正体不明のイメージの発生源から距離をとるのは、ちょうどいいタイミングであろうと思っている次第です。