張源祥の系譜 - 関西の美学者・音楽学者の批評

前のエントリーに揚げた1962年の音楽クリティック・クラブ結成を報じる記事を見ると、結成時のメンバーに張源祥がいる。京都帝大で美学を学んで関西学院に美学科を作った人だ。

大学教員が批評を書くのは、(いつからそれが当たり前になったのかわからないけれど)比較的ありがちなことと思われているようで、文学者が文芸批評、美術史家が美術批評を書くように、美学者・音楽学者が音楽批評を書くことがある。

そういうことがいつどのように「当たり前」になったのか、いつかちゃんと調べてみたいところですが、改めて考えてみると、関西で学んで音楽批評を書いている美学者・音楽学者は、ほぼ全員、何らかの形で張源祥と関わりがあるようだ。

張源祥は関学で谷村晃(関学教授から阪大教授を経て大阪芸大大学院教授)、畑道也(関学教授から関学院長)を育てて、あまり知られていないけれど、谷村晃も関西音楽新聞や京都新聞にいくつか批評を書いて、1970年代に大阪国際フェスティバル公演のプログラムに曲目解説を寄稿するなど、音楽評論家風の仕事をしていた時期がある。一時期毎日新聞で音楽評を担当していた中村孝義(大阪音大理事長)と網干毅(大阪音大教授から関学教授)は谷村の関学時代の教え子(さらに言えば中村孝義先生は張源祥が大阪音大に移って急逝したあとを受けて同大音楽美学の担当教員に採用されたそうです、ご本人が大阪音大の最終講義でおっしゃっていました)。朝日新聞で音楽評を書いている吉田秀和賞評論家の伊東信宏、岡田暁生は谷村の阪大時代の教え子、わたくしもいちおう谷村晃のもとで阪大で修士論文を書いた最後のひとりで、大久保賢はそのあと大阪に来て渡辺裕に学んでいるけれど、岡田暁生に気に入られて舎弟みたいに振る舞っていたから、張→谷村→岡田→大久保で曾孫弟子のようなものかもしれない。そしていま関西音楽新聞を切り盛りしている小味淵彦之は関学で畑道也に学んでいる。

大学の教員は特に地元意識をもつことなく赴任・異動するグローバルな職業だから、他に、たまたま関西の大学に赴任して批評を書く(書いている)という方もいらっしゃいますが、京都女史大の故中原昭哉は京都芸大作曲出身の音楽教育の人だし、京大/帝塚山の鴫原真一は音楽評論を書いているけれど英文学者。長く複数の媒体で「批評」を書いた美学者・音楽学者は、ほかには、根岸一美くらいかもしれない(根岸先生は東大美学出身で、大阪音大講師になったのはおそらく同大に元東大美学教授の渡辺護がいたからでしょう、その後、大阪教育大から阪大、同志社大で、同志社を退職したときに批評執筆も辞められた)。

張源祥が気になる。「阪神間山の手」的なものが昭和・平成の関西の音楽批評にどのような影を落としたか、というようなことが見えてくるのではないかと思う。朝比奈隆の周辺に旧帝大系の人脈があったこととの対比が興味深い。

[追記]

東大美学にも、張源祥と比較できるような人がいたのだろうか。海老沢敏や渡辺護は東大美学でどういう立ち位置だったのだろうか。

礒山雅や渡辺裕は、80年代に単体で突如出現したわけではなく、その背後にこういった人たちの姿が見え隠れする。(例えば、礒山雅の音楽学者としての一番の業績はバッハの私有されていた演奏譜を国立音大で購入して公開したことだろうと思うが、これは、彼個人の業績というより、かつて海老沢敏が学長だった国立音大の図書館長在職中の業務の一環だ。私有されていた演奏譜は、研究者が自力で「発見」したわけではなく、名前は表に出ていないが、どうやら原智恵子の遺品整理の過程で仲介業者が国立音大に話を持っていく、というような経緯であったように見える。)だから死者へのはなむけであるにしても「不世出」というような形容は適切ではないだろうと私には思われます。

個体の「死」というような偶然的な事件とは切り離してものを考えるとしたら、例えば、こういう見取り図を描いてみることができるのではなかろうか。