記録の重要性

インターネット上で2018年3月12日以前に増田聡さんが

人文学とは「詳細に記録しておくこと」と「その解読」の仕方を学んで身を守るための技術

である、という趣旨の主張を行った記録を私は知りません。(ないことの証明はできないので、「ある」と言うならそちらが立証して下さい。)この主張は、2018年3月12日に急造された可能性が高く、あたかも以前からオレはそう思っていたかのように振る舞うのは、記憶の改竄であろうと私は解釈しております(=「解釈」とはこういう行為です)。

(文書はしばしば書き換えられます。だから、いつどこで誰が何をどのように書き換えたのか、というログを残しましょう。)

[追記: 増田さんが、当初は「公文書は無謬である」という建前に批判的な距離を置く発言をしていたのが、ある時点で「間違いはけしからん」へと論調が転換する、その変節をたどることができるのも、記録(twitterのログ)あってこそですね。]

書き換え前と書き換え後の2種の文書がどちらも残っていたのだから、むしろ、厳しい条件下で行政符はちゃんと仕事をしたと言うべきだろう。書き換えの「意味」を問うのは政治の領域であって、この事態を、行政がなっとらん、と見るのは、ためにする議論と言わねばなるまい。

総理の失点探ししかしない野党と、役所の失点探しで溜飲を下げる大学教員は、本来関係がない別のことをしているはずなのに、どうして、共闘できる気になってしまうのか、その政治感覚が私にはさっぱり理解できない。

行政符を糾弾する側が、行政符の担当者を死に追いやったのと同じ力学を利用しているかのように見えるのは、とても不幸なことです。

(高速道路脇の旅客機が真上を低空飛行する土地がどのような経緯で国有化されて、どのように運用されて、どのように民間への売却話が持ち上がるものなのか。どういう人たちがどういう立ち位置で関与するものなのか。増田先生には、当たりが付いているのだろうか。)