文学・音楽・造形

うた・メロディーは言葉に寄り添う行為・現象だから、音楽のかなりの部分は文学との関係で捕捉することができそうだけれど、20世紀の「前衛/現代音楽」が閉鎖的で孤立した奇妙な袋小路に見えてしまうのは、これが文学(言葉)から遠ざかって造形芸術と連帯する運動だったせいかもしれない。(小谷野敦の純文学論は美術にまったく言及しないけれど。)

音楽には、うた(言葉の抑揚)の技術という側面とともに、音・音響のデザイン・構成という側面があって、20世紀には、音・音響の形式化とその批判というようなことが、造形芸術(と舞踊)の前衛(具象から抽象へ、とか)を参照しながら追い求められたんだと思う。

詩にも言葉を形式化する技術という側面があるはずなのだけれど、日本の近代詩はそういう風に進んでいないから、なおさら、文学の側から音楽の前衛が不可解に見えてしまうのかもしれない。

(文学における近代がサタイア(諷刺)を「芸術的」とみなしたことと、造形芸術における近代の形式化とその批判は、批評性という点で同時代の並行現象だと見られてきたのだと思うけれど、本当にそういう理解でいいのかどうか。諸芸術の歴史は横並びに平行しているのかどうか。文学・音楽・造形等を「芸術」と総称する枠組をこの先も存続できるとはちょっと思えないし、諸芸術の関係をどう語ればいいのか、「芸術史」は、いったん、バラバラにして組み立て直したほうがいいのかもしれない。)

純文学とは何か (中公新書ラクレ)

純文学とは何か (中公新書ラクレ)

(ちなみに、オラトリオはヘンデルのメサイアのようなバロック期の反宗教改革から出てきた宗教音楽だから、「中世のオラトリオ」というのは、何か別のものと混同しているんだと思う。グレゴリオ聖歌を想定して、隠れキリシタンの伝承が「おらしょ」と呼ばれている、というようなこととごっちゃになったのでしょうか?)

追記:考えてみれば、純文学や実験音楽は商売にならないけれど、造形芸術のアヴァンギャルドは売れた。というより、印象派という前衛をビジネスとして回していくことで画廊・キュレーターという業種が発展したのだから、前衛美術は新しいビジネス領域を「創った」のだと思う。美術のキュレーションを見習え、というのが現在の芸術・文化領域におけるマネジメント/広報/アウトリーチの隆盛(専制)につながっている。

「芸術」と総称される諸領域は、20世紀においても横並びに対等ではなく、それぞれで違う事情があったということだと思う。そして「隣の芝生は青い」とばかりに、音楽が美術のマネをするからおかしなことになる。

(そういえば、私が日経から音楽評を依頼された頃の大阪文化部デスク(担当記者さんとご挨拶に来られた)は、その後、東京で独立して画廊を経営していると聞きます。芸術とビジネスの20世紀的なつきあい方としては、こういうのが正解・王道であったと言うべきかもしれない。)