飯森範親はチャラいマエストロというより手堅いカペルマイスターではないか

日本センチュリーの指揮者に就任したときは東京から司会にテレビのアナウンサーを呼んだり、いきなり定期演奏会を2日公演にしたり、毎回コンサートの帰りに「おみやげ」を配るスポンサーが付いていたり、ケバケバしく大量の花火が打ち上げられるのに辟易して、以来、このオーケストラは遠巻きに眺める感じでしたが、飯森範親の指揮者としての演奏スタイルは全然派手ではなく、むしろ、ガチガチに堅いと思う。

関西では、大阪音大のオペラハウスの指揮者として20世紀のオペラをやって、その流れでいずみホールの室内オーケストラで20世紀の音楽をやり続けているけれど、ひょっとすると、そういう仕事は彼の気質に合っていたわけではなく、できるかどうかギリギリのところで必死に食らいついていたのではないか。

日本センチュリーとの仕事で、ハイドンやベートーヴェンをやりすぎなくらい四角四面に整えたり、アマチュア・オーケストラがやりたがるような、演奏上のぎりぎりのアクロバットはないけれども一定の演奏効果のあがる作品が「勝負曲」だったりして、ようやく、飯森範親の良くも悪くも「堅い/硬い」ところがはっきり見えてきたように思います。

華やかでアクロバティックな音楽とか、ハッタリ気味に周囲をハラハラさせる企画とか、そういうのは、それが心底得意な人(例えば飯森範親の友人であるらしい藤岡幸夫とか)に任せて、あまり融通は効かないけれどもこうと決めたら梃子でも動かない感じの「堅さ/硬さ」が生きるレパートリーに取り組んでいけばいいのではないでしょうか。

実際、日本センチュリーの飯森範親の担当分はそういう選曲になりつつあるように見えるし、常任指揮者の職分は、それでいいのではないだろうか。

最近の音楽広報が大好きなtwitter、faceboook等々で「拡散」される「公式コメント」では、指揮者はほぼ自動的に「マエストロ」と呼ばれているが、私はそもそもあれが大嫌いです。いわゆる「思考停止」の典型だと思う。(個人を役職名や肩書きで呼ぶのは、「うちの部長」みたいな会社的発想に見える。おかしいやろ、そんなん。)言葉はもっと大事に使いましょう。飯森範親には、マエストロではなくカペルマイスターという言葉が似合います。

(今月の定期の後半の交響曲は、スカっと鳴らせばいいので、あんな感じでしょうが、前半のライネッケは、独奏とオーケストラの綿密なアンサンブルを意図したと思える作品なのだから、思い切って編成を小さくしたほうが日本センチュリーの特徴が生きたのではないかと思う。「魔弾の射手」は……。ウェーバーのドイツ音楽には珍しくチャラいところ、芝居がかって恐怖や焦燥や喜びをめいっぱいに発散させる音楽は、飯森範親には難しいようですね。

ウェーバーと言えば、先月の関西フィルの定期演奏会でウェーバーの「トゥーランドット」とヒンデミットの交響的変容が合わせて取り上げられていましたが、せっかくのドイツらしからぬチャラい企画なのに、大久保賢の解説が硬かったですね。)