懸命にもがく見世物は「人間的」か?

自然主義リアリズムや私小説がドロドロした現実から目をそらさない近代の芸術だと言えるのは、それが諷刺・告発・批評として機能するからだと思う。

でも、懸命にもがく姿それ自体を興行・見世物にするのは、要するに奴隷と猛獣が闘うコロシアムを見物しているのと同じ構造だから、むしろ、ヒューマニズムに反する気がする。

「彼らは一生懸命やっているのだから、評価してあげてくださいよ」

という言い方があるけれど、それは情が厚いようにみえて、むしろ、いわゆる「上から目線」の高みの見物を博愛主義風に偽装しているだけだと思う。

この種の懸命にもがく見世物は大阪名物だと誤認されているところがあるようなのだけれど、ちょっと違うんじゃないかとわたくしは思っております。そっちへ突き進むのは止めて欲しいんだよなあ。

……というのが、尾高忠明のブルックナーを聴いた感想です。

大阪維新は、文化芸術に関して「吉本を見習え」というメッセージを発し続けているけれど、懸命にもがく見世物に活路を見いだしてしまうのは、やっぱりマズかろうと思う。

大阪フィルのバーンスタイン「ミサ」は、確かに一定の成果だとは思いますが、懸命にもがくヒューマニズム、という定型に回収して理解されそうな興行だったのは否めない。読売日響でメシアンのオペラを見たら、やっぱりこっちのほうがええわ、と思ってしまう。

私は日経でバーンスタインのミサの上演に関して「井上道義の本物志向」を指摘しましたが、そちらのほうが本線で、しばしば「トリックスター的」と評されてきた井上道義は、手順や段取りをすっとばす不意打ちで何かをやるので周囲に波風が立つけれど、出してくるものが「本物」だ、というところが大事なことで、彼の周囲に沸き起こる波風は副次的なことだと思う。

対応困難に見える波風をどうにか乗り切ったことは当事者にとって大きな体験ではあるのだろうけれど、周囲が、そういう一致団結の懸命さそれ自体に拍手を送る、みたいな回路ができて、それが常態化するのは、どうなのか。そういうのは過渡的な現象に留めて置いたほうがいいのではないか。

維新の登場で、大阪フィルも日本センチュリーも大阪市音も、みんなドタバタしたけれどその先がどうなるのか。

あくまで現状の暫定的な判断でこの先はどうなるのかわからないけれど、現時点では、ドタバタした先で落ち着いてきた日本センチュリーの「手堅いカペルマイスター」のほうが一歩先を行っているかもしれない。