死んだ過去としての20世紀と生前の思い出としての20世紀

21世紀に生まれた人たちが既に18歳になろうとしているわけだから、20世紀が今生きつつある者とは直接関わりのない「過去」(奥行きを書いた事実の記録)として扱われるのは、これはもうしょうがない。

その一方で、かつて20世紀が「同時代」であった頃の記憶をいつまでも反芻しようとしても、既に20世紀は「同時代」ではないのだから、そのような思い出話は色あせていかざるを得ない。

でも、それは「歴史の終わり」というような話ではなく、ようやくこれで、歴史=物語を立ち上げるための素材と条件が整ったということではないかと思う。

絶好の機会に立ち会えているのに、「既にすべては終わってしまった」と思ってしまう人がいるとしたら、その人は「歴史」に歴史ならざる何か別のことを期待して、そのような「歴史もどき」を弄んでいたんだろうと思います。

好奇心を刺激するような「20世紀音楽」のコンサートは、むしろ最近増えている。ようやくここまで来ましたね、さあ、いよいよこれからですね、という感じがします。