CDの劣化、オーケストラにとっての「シューベルト体験」

メロス四重奏団(ロータス・カルテットの師匠ですね)によるシューベルトの全集を講義で使おう思って久しぶりに棚から取り出したら、盤面が劣化していてショックを受けた。

が、同じ音源をiTunes Storeですぐに買えることがわかって、もうCDの時代じゃないんだなあ、と再びショックを受けた。

でも、「音源」はこうやって別の「メディア」に移し替えられるけれど、ジャケットや添付文書等は消える。

ウェストミンスター復刻板のシューベルト弦楽四重奏全曲の解説を1995年に書いたことがあって、さっき読み直したら我ながら頑張っていいことを書いていたのですが、こういうの(や演奏会のプログラムの解説)は消えていきますね。

尾高忠明と大阪フィルのベートーヴェン交響曲全曲演奏がスタートしたので昨夜1回目を聴きましたが、そのときにもシューベルトのことを考えてしまいました。

やや誤解していたようで、1番を聴いていると、どうやら、尾高さんは透明ですっきりしたアンサンブルを目指しているらしいと思えてきた。でも、プロメテウス序曲の冒頭が力任せになったり、後半でおなじみのエグモント序曲がはじまってしばらくすると、おそらくリハーサルで色々打ち合わせたのであろうことがすっ飛んで「いつもの大フィル」の音になって、そのまま、アンサンブルが混濁したまま第2番に突入した。

指揮者とどういう打ち合わせをしようが本番は「オケのペース」に引っ張っていく、というのはプロのオーケストラではよくあることのようですが、そうやって引きずり込まれた先にある「大阪の流儀」は、もうさすがに今は通用しないものになっていると思います。

考えてみれば、大阪フィルはベートーヴェン、ブラームスで、あとは大編成のブルックナー、マーラーをレパートリーの核にしている。

いきなりピリオド・アプローチというのはないだろうけれど、90年代から室内管弦楽団等がさかんに取り組んだシューベルトは、ほぼ大阪フィルのレパートリーにないんですよね。

アバドの80年代のシューベルトへの取り組みなどがあって、同じ頃からノリントンやブリュッヘンなど古楽系の指揮者たちもシューベルトやメンデルスゾーンに取り組んでいて、東京にはブリュッヘンが指揮者として招かれたり、東京交響楽団でスダーンがシューベルト、シューマンに集中して取り組んだ。大阪でも、90年代終わりのかなり速い段階で本名徹二と大阪シンフォニカー(現大阪交響楽団)のシューベルトが(私は間に合わなかったけれど)話題になっていたと聴きます。

朝比奈隆の晩年の周囲の熱気に飲まれて、このあたりの動向へのキャッチ・アップがないことのツケは、今となっては大きいかもしれない。

弦楽器の若い人たちとか、こういう新しいタイプの古典・初期ロマン派の演奏がわかっているメンバーがオーケストラにはいるはずだけれど、団内で有力だったり、本番で大きな音が出せてしまう楽器たちに残っている「ベートーヴェン/ブラームス/ブルックナー」派に押されてしまう、というようなことでしょうか?

端的にハーモニーが濁る。現状では、むしろ、デュメイとやったときの関西フィルのほうがいい響きになる。