大学教授が関西の音楽ホールをプロデュース

前にも書いたが、恩師谷村晃が日本音楽学会会長を退任する最後の執行部の会合(常任委員会という名前で今もこのしくみは続いているようだ)が阪大であったときに、次年度から海老沢敏の国立音大に執行部が移るというので、引継ぎの意味で礒山雅がオブザーバーとして会合に出席して、そのときの雑談で、礒山は「今夜から北新地に行くんです、はじめてです」と言っていた。1990年初めのことで、おそらく、いずみホールの設立に向けた接待だったのだろうと思う。

当時、谷村晃(や山崎正和)は関西の自治体による新しい文化センターの設立準備に関わっていて、会館後もプロデューサー的な立場で関係していく心づもりだったようだが、これはうまくいかなかった。サントリーの財団の仕事は退官まで無事務めたのだけれど……。

東京文化会館や神奈川県民ホールの例を見ても、自治体による公共文化施設のプロデューサーは民間の「芸術家」に委託するのが座りがよくて、逆に、大学教授(旧帝大のような国立大学出身者が理想)は、民間施設のプロデューサーに迎えると安定する、ということなのかもしれない。

この島の「文化」が、現在のところ、透徹した官僚機構でガチに屹立するナショナルな装置を求めてはいないし、そのような国家から独立して実勢力だけで渡っていく自由芸術家(企業人がその人物に全権を与えようと思うような)は見当たらない、ということかと思う。芸術家は最終的に「国家」の庇護を求めるのが手堅いと考えるし、「国家=行政」は、「芸術家本人がそう言っているのだから」という話法で動く。そして一方、企業人は、メセナと言いつつ、アーチストに直接投資するのではなく、「知識人」(官僚的な資質を持った)に助けを求める。

今年は明治150年だそうだが、少なくとも昭和期まで、この島では官僚機構に人材や知識・情報を集約されていて、民間とははっきりした落差があったから、パブリックな場で「文化/芸術」を安定して運営するには、「国立/官僚」と「民間」をバランス良く組み合わせる必要があったんだと思う。

礒山雅が実際に音楽ホールをプロデュースしたのは平成期だけれど、松本深志から東大というキャリアや追悼号からうかがえる振る舞いには昭和の大学人の臭いがする。そのような「役割」を自ら選び、演じた。

いずみホール広報誌の礒山雅追悼号をみて、そう思った。

(またこれは、「国家=行政」という装置を使う場合であれ、企業人としてであれ、この島の「市民」に「芸術家」を直接コントロールする知恵も意識もなくて、「国家=行政」のトップとして芸術家自身が「政治家」になるか、さもなければ、芸術家への応対という煩わしいことを「知識人」に丸投げしがち、ということでもあるだろう。芸術家は政治家に向いているとはあまり思えないし、知識人は芸術家のお守り役ではないはずだが。)

あと、実務担当者たちが礒山を「人生の師」のように仰ぐ態度は、朝比奈隆を特別な位置に据えていたかつての大阪フィルに似た「大阪のチーム」という感じがする。

大阪人は、東京の知識人を振り向かせることを「文化的な価値」と見積もるし、東京の知識人をトップに据えることを誇りに思い、そのもとで働くことを意気に感じる。たぶんそういう組織の力学があるんだと思う。

(私は生粋の大阪人/関西人ではないので、その心性はよくわからないが、「企業・会社」というのはややこしそうなところであることだなあ、とは思います。郊外から都市へ「通勤」している人たちのほぼすべてがどこかの「企業・会社」に属している、というのは、自動車という危険な道具の使用免許がこれほど多くの人たちに与えられているのと並んで、現代の都市の奇観だと思う。)

そして、改めて公演写真を見ると「こういう人たちも来ていたのか」と驚きますが、バッハを中核に据えて古楽/HIPをキャッチアップするところが、「音楽評論家礒山雅」の「らしさ」だったんでしょうね。