東大生は「誤配」を司る

礒山雅は、音楽ホールのスタッフからのメール(彼を誉める文面であったらしい)を、「その書き方では逆の意味に受け取られます」と添削したことがあるのだとか。

添削された当人は大いに感銘を受けたようだが、細かいところまで気を張りすぎるオーバーワークではないかと思う。

(そういえば、東大美学の先輩にあたる山口修にも、妙に神経質に言葉尻にこだわる癖があった。)

思えば、東大生とは、この島のなかで、彼らの発言がインターナショナルな知識人コミュニティにおける意味(要は学問としての価値)とは別様に受け取られることのメリットとデメリットを運用する存在であったし、いまもそういうところがあると言えるかもしれない。

礒山雅の人生は、彼の発言や振る舞いが「別の意味に受け取られる」ことの恩恵をむしろ上手に活用したのではなかろうか。

それは、むしろ、あまり面白くはないローカルなゲームと見られてもしかたがないと思うわけだが。