トロンボーン登場:多様における統一の構造転換

音楽と感情

音楽と感情

チャールズ・ローゼンは、『音楽と感情』のプロローグで、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番第3楽章の冒頭部のピアノ・ソロに3つのキャラクターがある、と言う。

ミケランジェリとベルリン・フィルの映像を見ると、ミケランジェリの完璧な演奏でローゼンの指摘(ファンファーレとドイツ舞曲と多感様式・モーツァルト風の半音階の区別)が机上の空論ではないことがわかって感動的です。

また、ミケランジェリは当初予定されたクライバーとのレコーディングをキャンセルして、指揮者がジュリーニに変わったそうで、その経緯はミケランジェリだったかクライバーだったかの評伝に書かれていたはずですが、「天才クライバー」の「二代目」っぽい弱さとミケランジェリの貴族的な強さが垣間見えます。

ミケランジェリ  ある天才との綱渡り (叢書・20世紀の芸術と文学)

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カルロスクライバー(下) ある天才指揮者の伝記

カルロスクライバー(下) ある天才指揮者の伝記

ローゼンは続けて、オーケストラのトゥッティがこのような3つのキャラクターの描き分けを無効(override)にして、トレモロの大河で押し切ってしまうのがこの時代(明言しないがフランス革命の時代ということですね)の特徴だと書くのだけれど、

考えてみれば、古典派のオーケストラにおける管楽器たちの使い方(先のエントリーで個々の楽器の希少性と多彩さと書いたこと)が、ここでのピアノ・ソロのキャラクターの描き分けに対応している。(実際、最初のファンファーレはトランペット風、次のドイツ舞曲は木管楽器風、多感な半音階は弦楽器風に、ピアノで様々な楽器を「模倣」している。)

そしておそらくベートーヴェンは、トロンボーンに、そうした多彩さを無効にして塗り込めるパワーを期待したのではないかと思う。交響曲第5、第6番のトロンボーンはピッコロと組にして使われているので、革命後の劇場(王侯貴族に変わってフランスの兵士たちがひしめくような)のサウンドをシンフォニーに持ち込む試みなのだろうし、ベートーヴェンの頃には、トロンボーンを教会の合唱音楽に使う習慣が定着していたので、交響曲第9番でトロンボーンが合唱を先導するのは、シンフォニーに教会音楽=宗教を持ち込もうとしたのだろう。

(思えば、カントも理性・道徳・芸術の三批判書のあとで宗教と公共性を考えようとしたのだし、当時の知識人にとって、こういう順序で問題を考えるのがアクチュアルだったのでしょう。)

シューベルトのシンフォニーでは、依然としてトロンボーンが「他者」として振る舞っているように思う。

シューベルトのトロンボーンは、未完成のロ短調交響曲で第1楽章の優しい歌や第2楽章の楽園を踏みにじる役割を果たしたり、大ハ長調交響曲の展開部で、「新しい音調」を突如として奏でたりする。そしてこの「大いなる他者」としてのトロンボーンの呼びかけ、というヴィジョンが、大ハ長調交響曲を発見したシューマンの「春の交響曲」のファンファーレになり、この曲をライプチヒで初演したメンデルスゾーンの交響曲「讃美の歌」の冒頭のトロンボーンになる。

トロンボーンがオーケストラのサウンドに統合されるのは、さらに低い音域のチューバが導入されて、金管楽器が弦楽器と同等に高音域から低音域をカヴァーする独立セクションへと再編されたあとのことだと見るのがよさそうで、オーケストラの再編を強く望んだワーグナーがチューバを欲していたのはその先駆けだろうし、チャイコフスキーでは、トロンボーンとチューバを整然と統合したブラス・セクションを聴くことができますね。

オーケストラには「公共性の構造転換」(ハーバーマス)のようなことが起きていて、それは、ウィーン古典派(モーツァルト)でもなくフランス革命(ベートーヴェン)でもなく、ワーグナーの時期、19世紀半ばのことだったと見るのがよさそうに思います。

鍵を握るのは、トロンボーンという、西欧では例外的に古くからほとんど構造を変化させずにいる楽器(しかも声との結びつきが強い楽器)であり、何が変わったかということを探るときには、西欧近代音楽を論じるときに長らくキーワードとされてきた「効率・勤勉・分析と統合」というプロテスタント的な「近代」よりも、むしろ、「希少性」や「多彩さ」といったカトリック地中海的な祝祭の機微を踏まえる必要がある。

「音楽の国ドイツ」の「混合趣味」は、「多様における統一」という修辞学風の構成・形式論とワンセットで展開されてきたように思いますが、問題は、「多様における統一」の実装が、バロックと古典派と19世紀では違う、ということなのだろうと思います。