ロッシーニとフランス革命

カール・ダールハウスのベートーヴェン論は、要するに、ベートーヴェンは音楽におけるカントである、という立場で書かれた批判的器楽論だと思う。カントが啓蒙を批判的に吟味するように、ベートーヴェンは、18世紀末に至る器楽の伝統を踏まえてそれを批判的に吟味した、という見立て。

でも、そう考えると、ベートーヴェンの営みに18世紀から19世紀への「転換」や「革命」はない、ということになるかもしれない。ベートーヴェンの後期様式は、まるで哲学的な議論のように手順を踏んで到達した境地であって、外部の力による断絶はないことになる。

フランス革命劇の様式でオペラを書いたり、オーケストラにトロンボーンを導入するのは、そのことで「音楽の詩学」に変更がもたらされるような構造転換というより、「新しい趣味」(ドイツの音楽家が「混合趣味」の意味で自らの芸術に「混ぜ合わせる」のが当然であるような)のひとつに過ぎないと見たほうがいいかもしれないし。

(ドイツで「国民オペラ」という理念が実体化されたり、オーケストラが「近代化」するのは、ようやくワーグナーの時代になってからだ。)

一方、ダールハウスは、ドイツの音楽史記述の先例をあまり変更することなく、ロッシーニを「メッテルニヒの王政復古期の空疎」のシンボルだと位置づけたけれど、ロッシーニのオペラは、カストラートが使えなくなって声のセッティングが従来とは変わっているし、独唱パートがコンサート・アリア風に観客を煽り立てるし、「ドイツの器楽」の成果を踏まえたサウンドを試みている。

むしろ、革命期の政治(音楽の外部)が「力」として音楽に介入して、音楽の姿を変えてしまった実例は、ベートーヴェンではなくロッシーニのほうかもしれない。

ベートーヴェンとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)

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