「21世紀の市民」:芸術で「食っている」のは誰か?問題

芸術が芸能界や政財界に食い物にされるのは原理的に仕方がない、それは芸術に賦与された自律性や社会的ステータスの対価である。

少し話がずれるかもしれないけれど、現在の世の中で、芸術家のうち、芸術で「食っている」(生活している)人はほぼいないんじゃないかと思う。(現在だけでなく、古今東西、そういう人はごくわずかなのではないかという気がする。)

芸能界(興行界)や政財界(パトロン)が、芸術家を「食わせてやっている」と認識しているとしたら、それは間違いだろう、ということだ。

芸術は、それ自体に金がかかるというより、「商品」としてであれば「イベント」としてであれ、パブリックな場に登録するのにコストがかかる。(その分野で生きていく「わざ」を既に得ている人であれば、その分野で何かを作ったり、やったりするのに、そこまでお金はかからない。お金の問題とは別の次元のモチベーションで、何かが作られたり、何かが行われたりする。だから芸術は遊びの一種だと言われるのでしょう。)

上の引用の前段は、

芸術をめぐる言論・マネジメントが芸能界や政財界に食い物にされるのは原理的に仕方がない

と言い換えたほうが正確ではないかと思う。芸術を取り扱う各種業務に従事する裏方の人たちは芸術で「食っている」けれど、芸術家は、たぶん、芸術で「食って」はいない。

そして「自律」や「ステータス」は、パブリックな場における条件闘争のようなものだろうから、そういう下部構造を見ずに議論しても空疎なんじゃないかな。

芸術家であれ、芸能界・政財界であれ、裏方をきちんと「食わせる」甲斐性がない状態でやっていたら、そりゃ、揉めごとが絶えないでしょうねえ、という気がします。「芸術」は「市民」(ブルジョワ)の観念ですから。

(というような話は、「アート・ワールド」に書いてないのだろうか。)

ブルジョワ主導の19世紀的な国民国家・市民社会の「前」もしくは「外部」にある宗教儀礼や貴族の営みはまだ「芸術」という単数形にまとまっていないし、20世紀新体制以後の大衆社会に「芸術」の採算が成り立つ場所はない。

反動・バックラッシュ、19世紀への巻き戻し、とは違う仕方で、甲斐性のある者が緩やかに連帯して時を稼ぐ。「21世紀の市民」像は、暫定的に、そういうものかもしれませんね。

(そしておそらく吉田寛先生や同世代のこの島の心ある「博士」たちは、「博士号」をそのような「21世紀市民」の目印、ステータス・バッジにしたいんだろうなあ、と思うけれど、「芸術」がそういう制度に収まるかどうか。「芸術」という案件は、直近の制度設計より射程が長いんじゃないかという気がしないでもない。)