有産階級の言論

一昨日ゲンロンカフェでの対談後、東さんや土居さんと深夜二時過ぎまで呑んで話して(私は時折寝落ち)改めて気付いたんだけど、二人とも話の前提が「経営者」なんですよね。話題に上る人達(津田さん等)も同様。「被雇用者」は私だけw。対話や交流に値する人達が、どんどん大学から離れていってる。

ここで言われている「経営者」は有産者ということだから、大学の現状云々というより、言論の担い手としての「市民」(ブルジョワ)という階級概念が再発見されているのだと思う。

サラリーマン/被雇用者(プロレタリアート)の自分語りをぐるぐる回すことに知識人は退屈しつつある。

(ちなみに、わたくしはこの夏、ノアンに行く機会を得ました。ジョルジュ・サンドの実家、というか所領があった村ですが、彼女はポーランド王の庶子でルイ15世時代の大元帥だった貴族の末裔で、ショパンの伝記にも登場する彼女の息子モーリスはノアンの村長を務めたこともあって、いまでは、サンドとその一族の痕跡が「村おこし」のシンボル的な存在になっているようでした。ショパンがこの村に滞在したことは、そのようなサンド家の数世代にわたる名望を彩る「数多くのエピソードのひとつ」に過ぎない。そのような印象を受けました。)

愛の妖精 (中公文庫)

愛の妖精 (中公文庫)

(そんなサンド「愛の妖精」の邦訳を学習院の篠沢先生が手がけているのですから、19世紀フランスや20世紀日本に「市民」の文化としての文学/小説、というのがあって、音楽は(ちょうと「うた」が「ことば」に支えられて存立するように)文学に随伴する、というのが、そのような「市民」文化の布置であったと見積もるのがいいのではないかと思われます。)