読み替え演出のパントマイム的な演技

オペラの読み替え演出は言葉(歌詞)が指し示すのとは別の物語が進行するわけで、そういう舞台を見て何がどのように読み替えられているのか観客が受信できるのは、言葉なしに所作(と舞台美術)からドラマを読み取っているからだと思う。所作(と舞台美術)が、言葉を消してもドラマを成立させているわけで、読み替え演出の演技はパントマイムのような受け止められ方をしていることになる。

(そして演劇史的には、オペラの読み替え演出が、「言葉の演劇」に対する20世紀の反発、という系譜に連なっているということだろうと思う。)

……というところまでは、少し前に考えていて、この話をうまく展開していくことができないものかと思っていたのだけれど、

私たちは、このようなパントマイムが、言葉(や歌や音楽)と同期していなかったり、予期せぬ回路でリンクしてしまったりする様を楽しんでいるわけだから、ひょっとすると、読み替え演出の舞台は、全体として、「口パク」に近い何かになっているのかもしれない。

言葉と歌と音楽(とドラマ)が同期していないことに苛立つ人もいるけれど、通常の上演(それらを何とか同期させようとするような)を知らないお客さんは、むしろ、「読み替え」を何の抵抗もなく楽しむことが多いと言われている。

それと関連するかもしれないし、別の話かもしれないけれど、

舞台上の演者の言葉(台詞)と芝居が同期・シンクロするリアリズムは、舞台パフォーマンスとしても、むしろ、後発ですよね。

古代ギリシャでも、コロスや口上は演者自身の言葉として受け止められただろうけれど、ドラマがはじまると演者は仮面を付けたわけだから、仮面の背後で「口パク」しているようなものかもしれない。

日本の仮面劇である舞楽や能と、仮面をつけない狂言は、どうやら別の由来と文脈で展開してきた可能性があるようだし、演者が台詞を語る(=演技と台詞が同期する)歌舞伎には人形浄瑠璃が先行している。

それに、韻文の演劇(旧来演劇とはそういうものだった)や歌う演劇(オペラですね)においては、はたして、特有のリズムで進行する台詞や歌が、役者の演技・所作とシンクロしていると言えるのか。どうやら、そうではないような気がします。

視覚情報と聴覚情報、音と身体が同期している状態というのは、むしろ、そっちのほうが無数の約束事の上に成り立つ人工的なパフォーマンスなのではなかろうか。

(かつての劇場は暗くて、語ったり、歌ったりする演者の口元は、仮面のない素面だったとしても、観客からよく見える状態ではなかっただろうし。)

言語中心主義への批判をキリスト教批判として展開する、というクリシェがあるけれど、世俗領域で、演劇・ドラマにおける現前の再検討として展開するほうが、むしろ問題を整理しやすくなるかもしれませんね。事実、ドラマや現前の問題は、映画という20世紀のニューメディアの研究が色々な成果を出しつつあるわけだし。