言説史の彼岸

大栗裕の自筆譜研究や大阪の祭り囃子の調査、遺品として残された録音の解析をこれまでやってきて、それはつまり、西欧流音楽学、民族音楽学(比較音楽学)、ポピュラー音楽の基礎にもなりそうなニューメディア論を参照しながら大栗裕にアプローチしてきたことになるかと思う。

大栗裕を素材にして、近現代の音楽研究の方法をひとつずつ実際に使いながらおさらいをしているようなものです。

今度は「大阪のバルトーク」というキャッチフレーズについて、最近流行りの言説史をやろうと思って話を組み立ててみたのだが、でも、どうやらこれは独立した話にはなりそうにない。テクストのアーカイヴが自律的にうごめいて、書かれたものの「セカイ」が我々をとりまいており、「私」という存在、「ネイション」(「音楽の国」なる反措定を含む)等の観念は、そのような「セカイ」を「読む」行為によって再帰的に立ち上げられる。このような「失われた20年」に大流行したテクスト論、ディスクール論のアイデンティティ・ポリティクスを大栗裕に適用しても、大して面白い結果は出そうにない。

「大阪のバルトーク」論は大栗裕の管弦楽作品を通時的に見るときの「前段」という位置づけが順当だと思われ、「大阪のバルトーク」論を突き抜けた先で、声と言葉に結びついた作品、広義の劇音楽との関係を見極める、というところまで行かないと、どうやら、ポジティヴな議論にはならなそうだとわかってきた。

2008年に大栗裕を調べはじめたときから、大栗裕は「大阪のバルトーク」ではない、と根拠を添えて言えるところまで進もうと秘かに目標にしていたのですが、10年かけて、ようやく作業は半ばですね。

まあ、「研究」というのはそういうものか。

「セカイ」を「読む」ことが人文学だ(「書かれたものしか信じない」)と言い放ってキラキラ輝いていた人たち(彼らの輝きの正体は、実は「コトバのチカラ」ではなく、匿名掲示板とブログからSNSに推移した情報社会のコミュニケーション・ツールのアウラに過ぎなかったのではないかという疑いもある)が軒並み劣化していくご時世までこうして生き延びることができた巡り合わせを幸いであったと思うことにします。

クラシック音楽とは何か

クラシック音楽とは何か

一方、伊東信宏さんは、なんだか相変わらずお元気ですね。岡田暁生が憧れていたのであろう近代主義者たち、音楽好きの丸山真男や、実際に音楽の道に進んだ東大生たち、柴田南雄や吉田秀和を通り越して、近刊の装丁は日本の洋楽評論の草分け、大田黒元雄の『露西亜舞踊』みたいになっている。

東欧音楽綺譚

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