都市の城壁を取り壊す=「クラシック音楽」を開く

「クラシック音楽」は西欧の民族音楽としてであれば存続、伝承できるのではないか、というのが諸民族の音楽(民族音楽学=冷戦時代の東西両陣営による「第三世界」の取り合い)からポピュラー音楽(複数形の音楽=グローバリズムな世紀転換期)に音楽研究の視野が広がった時代、ということは20世紀後半、ということは私たちが音楽とリアルタイムにつきあってきた時代の穏当な着地点と見られていたように思うのだけれど、

ロマン主義といわゆる「観察者/五感の改組」問題とか、東洋趣味/異国趣味という「他者」の問題がモードに代表される音楽理論の根幹に関わる異議申し立てである可能性とか、音楽をめぐるディスクール(「クラシック音楽」を形作り確立するうえで重要なファクターであったような)と輪転機の普及による19世紀のジャーナリズムの発展とか、楽器の改良による「サウンド」(組織的・合理的なその運用)の発見とか、という風に最近話題のトピックを研ぎ澄ましていくと、ナショナリズム(あるいは「音楽の国」論)といったイデオロギーの問題に帰着させるのではなく、18、19世紀のヨーロッパの音楽を「クラシック音楽」として括り出し特別扱いする根拠は、足下から崩れて、ほとんどなくなってしまうのではないか、という気がしないでもない。

音楽学校に音楽史・音楽学の専門家が配置されているのは、研究成果を音楽の基礎教育に役立てるためだと思いますが、今後、そうした立場の者は、かなり本格的に「クラシック音楽」を開く役割を担う/積極的に働きかける立場になっていくのかもしれませんね。

それは、いわゆる「ニューミュージコロジー」を、年長者への攻撃/世代交代の加速/下克上等に利用する後ろ向きの(=どこかしら新左翼の政治方針を引きずっている誤った用法としての「ポストモダン/進歩否定」)ではなく、次世代の育成に前向きに活用することでもあろうかと思う。

中年を経て、老人への入り口が見えてくると、だんだんそういうことも考えるようになりますね。

人間という生物は、運が良ければ、「子育て」の直接の当事者(「親」)の立場から解放された「老人」の段階まで生きながらえることがある。「老人」ゆえの自由ということは、やっぱりあるのかもしらん、と思ったりするのです。