教養主義と劇場:1870年代「交響曲の復権」はたぶん一枚岩ではない

通年でやっている管弦楽史でワーグナーが終わって、そろそろチャイコフスキー、ドヴォルザーク、つまりは、ブラームス(交響曲第1番が1876年)にはじまる後期ロマン派の「交響曲復権」を取り上げなければならないのだけれど、ここで、ブルックナーのワーグナー崇拝のみならず、他の「交響曲復権」の立役者であるところのチャイコフスキーもドヴォルザークも、若い頃はワーグナーの影響が強く(=チャイコフスキー「白鳥の湖」やドヴォルザークの初期交響曲)、劇場と関わりが深いことに思い至る(チャイコフスキーが官僚時代からペテルブルクの劇場に入り浸っていたり、ドヴォルザークがスメタナ率いる仮説劇場のヴィオラ奏者だったり)。

彼らが「交響曲の人」になるのは、彼ら自身の選択というより、ドヴォルザークにとってのブラームス、チャイコフスキーにとってのルビンステイン兄弟のように、どこかしら父権的に彼らをシンフォニーに誘導する人物がいたんですよね。

こういう事態の政治的な含意は、フランスのドビュッシー、ラヴェルの「印象派」モダニズムに先行するサン=サーンスの国民音楽協会がヒントになると思う。サン=サーンスの呼びかけに音楽家たちが結集したのは、フランスでは、シンフォニーと室内楽が第三共和政の「市民の音楽」として、教会や王党派に対抗する軸になっていたように見える。

劇場はブルボン王朝のアンシャン・レジーム以来の王のレプリゼンテーションだと言えるだろうし、ワーグナーがドレスデンやバイエルンの国王に接近したのに対して、ブラームスはウィーンの教養市民(楽友協会やフィルハーモニーの会員であるような)に支えられていた。

ベートーヴェンを神棚に祭ってシンフォニーをコンサートで鳴り響かせることは音楽における友愛の表現で、共和主義がまだ十分意は確立していなかった時代には、教会や宮廷への抵抗、第三の軸として機能した、ということなのだろうと思います。

でも、東欧・ロシアを視野に入れると、それほど話はすっきりしなさそうなんですよね。

ソ連の社会主義史観だと、ルビンステイン兄弟は皇帝に取り入るブルジョワ欧化主義者で、五人組こそが民衆プロレタリアートの側に立つ民族主義なのかもしれないけれど、皇帝の周囲にいたルビンステイン兄弟はドイツ系ユダヤ人で、バレエを統括したマリウス・プティパはフランス人で、むしろ、皇帝の欧化主義のほうが「インターナショナル」かもしれない。

(フランス音楽で第三共和政の守護者としてのサン=サーンスが最近急速に復権しているように、ロシア音楽の研究者が「政治的に正しいアントン・ルビンステイン評伝」で彼を再評価することは十分にあり得そうに思います。)

一方、五人組やチャイコフスキーのようなインテリゲンチャは土地所有貴族だったり軍人貴族で、五人組は、ちょうどワーグナーが北欧・ゲルマン神話を(ギリシャ・ローマ神話に依拠するイタリア・フランスのオペラに対抗して)楽劇で輝かせようとしたように、「イーゴリ公」や「ボリス・ゴドノフ」でロシアの王権を音楽劇にしているのだから、ナショナリストというより封建的な排外主義という感じがします。

ドヴォルザークも、ウィーンで「インターナショナルなドイツの交響楽」をやろうとしたけれども色々苦労して、ロンドンやニューヨークでの経験を経て、そういうブラームスの路線に見切りを付けて、晩年は、オペラと交響詩の人になりますよね。

フランスやドイツにはシンフォニーが共和政や市民的教養のシンボルになる文脈があったけれど、ボヘミアやロシアでは、「そんな遠い未来の理想論よりも、自分たちの王をもり立てるほうが早道だ」、そういう政治的選択のほうが有効に思えた、そしてそのような選択においては、シンフォニー・コンサートよりも劇場・音楽劇(王に直結するような)が制度上の支えになった、ということではないかという気がします。

チャイコフスキーやドヴォルザークのシンフォニーが通俗的とみなされるのは、彼らが書斎の教養主義でシンフォニーを思索(詩作)するのではなく、劇場(的な感性・詩学)に依拠して管弦楽を取り扱ったからではないか、そしてそれは、美学・趣味判断である以上に(であると同時に)政治的選択だったのではないか、という気がするのです。

19世紀後半の複雑なヨーロッパの情勢を考えると、「交響曲の復権」という言い方でブラームスやサン=サーンスとチャイコフスキーやドヴォルザークやブルックナーを一緒くたにしたり、ブラームスもワーグナーもまとめて「音楽の国ドイツ」と言ってしまうと(吉田寛先生がそういう雑な議論をしているということではないけれど、そういう感じに「音楽の国ドイツ」の語がむしろ安易に使われつつある風潮がありますよね?)、あるいは、クラシック音楽=教養主義みたいな知識社会学風の政治的に漂白された概念ばかりを流通させると、むしろ、19世紀後半のダイナミズムが見えなくなるのではないかという気がしております。