19世紀の芸術は20世紀のエンターティンメントの前史に過ぎない

そして21世紀には、20世紀が熟れた果実の中身を食べ尽くしたあとの抜け殻が実質のないレガシーとしてブランディングされて残っているだけなので、よほどの暇人以外は誰も芸術を顧みないだろうし、だからこそ、芸術は誰もが安心安全に弄ぶつまらない領域になったとも言える。

……とつぶやいている令和元年のわたくしは、バレエとミュージカル、そしてその「前史」としての西洋芸術音楽史を授業で日々楽しく語っております。「20世紀=エンターテインメントとしてのクラシック音楽」の終わりを音楽評論家として見届ける幸運を享受した「その後」の人生の過ごしかたとして、おそらくこれは、かなり幸福なことだと言えるでしょう。

良質のエンターテインメントではなくなった「業務」としてのクラシック音楽には、ほぼまったく興味が湧かないからね。

P. S.
1月末のエントリーで京フィルがやったグレツキのことを書いていますが、斉藤一郎が京フィル指揮者を退任したのはとても残念なことでした。エンターテインメントとしての現代音楽ができる逸材だったのに。

あと、日本の前衛音楽運動の「業務」としての一面については、少し前にこういう作文をしました。

10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update) : Blog | Hiroaki Ooi