演奏史譚「第三十五話 大阪にオペラを〜朝比奈隆と武智鉄二〜」

東京の人がこの話題を事実関係等についてノーミスで書いているのを初めて読んだ。読むべき資料に全部目を通していないと、こういう言葉遣いでこの話を書ききることはできないと思う。

朝比奈隆の欧米視察の力点がオペラにあったことをさらりと書ける人って、本当に少ない。彼の足跡、彼が書いた文章を読めば自ずとそう思えるのに……。

「夕鶴」と「修禅寺物語」(←たぶんこの歌劇は「善」ではなく「禅」の字を使っているはず、「お蝶婦人」のほうは、「蝶々夫人」ではなく関西歌劇団公演時の外題をちゃんと使っているのに惜しい!)に初演キャストによる録音があるのは当時の雑誌記事から把握していましたが、山崎さんは入手していらっしゃるのでしょうか。聴きたい!

演奏史譚 1954/55

演奏史譚 1954/55

このあたりの本の関西関連の箇所と読み比べれば、思い込み・決めつけ(&孫引き)で書いている人とそうではない人の違いがわかるはずです。

日本オペラ史 〜1952? 1953〜? 特別セット

日本オペラ史 〜1952? 1953〜? 特別セット

キーワードで読む オペラ/音楽劇 研究ハンドブック

キーワードで読む オペラ/音楽劇 研究ハンドブック

  • 作者: 丸本隆,荻野静男,佐藤英,佐和田敬司,添田里子,長谷川悦朗,東晴美,森佳子
  • 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
  • 発売日: 2017/04/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る

こういうことをやっていると、「大学」の信用は落ちる。

有産階級の言論

一昨日ゲンロンカフェでの対談後、東さんや土居さんと深夜二時過ぎまで呑んで話して(私は時折寝落ち)改めて気付いたんだけど、二人とも話の前提が「経営者」なんですよね。話題に上る人達(津田さん等)も同様。「被雇用者」は私だけw。対話や交流に値する人達が、どんどん大学から離れていってる。

ここで言われている「経営者」は有産者ということだから、大学の現状云々というより、言論の担い手としての「市民」(ブルジョワ)という階級概念が再発見されているのだと思う。

サラリーマン/被雇用者(プロレタリアート)の自分語りをぐるぐる回すことに知識人は退屈しつつある。

(ちなみに、わたくしはこの夏、ノアンに行く機会を得ました。ジョルジュ・サンドの実家、というか所領があった村ですが、彼女はポーランド王の庶子でルイ15世時代の大元帥だった貴族の末裔で、ショパンの伝記にも登場する彼女の息子モーリスはノアンの村長を務めたこともあって、いまでは、サンドとその一族の痕跡が「村おこし」のシンボル的な存在になっているようでした。ショパンがこの村に滞在したことは、そのようなサンド家の数世代にわたる名望を彩る「数多くのエピソードのひとつ」に過ぎない。そのような印象を受けました。)

愛の妖精 (中公文庫)

愛の妖精 (中公文庫)

(そんなサンド「愛の妖精」の邦訳を学習院の篠沢先生が手がけているのですから、19世紀フランスや20世紀日本に「市民」の文化としての文学/小説、というのがあって、音楽は(ちょうと「うた」が「ことば」に支えられて存立するように)文学に随伴する、というのが、そのような「市民」文化の布置であったと見積もるのがいいのではないかと思われます。)

ショパンとサンド

ドラクロワが描いたショパンの肖像とサンドの肖像が、もともとは彼のアトリエから没後発見された一枚の絵で、ピアノを弾くショパンの背後にサンドが寄り添う構図だったらしい。

シルヴィ・ドレーグ=モワン『ノアンのショパンとサンド』(原書1988年)では、ショパンの絵とサンドの絵が、1枚の画布の右側(ショパン)/左側(サンド)であるとの出典注記を添えて掲載されており、

ノアンのショパンとサンド

ノアンのショパンとサンド

  • 作者: シルヴィドレーグ・モワン,Sylvie Delaigue Moins,小坂裕子
  • 出版社/メーカー: 音楽之友社
  • 発売日: 1998/12/10
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る

ジル・サムスン『ショパン』(原著1996年)の場合、(原著のレイアウトは未確認だが)翻訳書では、ショパンとサンドの出会いの経緯を扱う章の本文中にサンド、ショパンそれぞれの肖像を掲載して、二人の出会いを語り終えた章末に、この肖像のためのスケッチを掲載して、今では切り裂かれて失われた原画のありようを推測できるように配慮されている。

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

ジル・サムスンは、サンドからショパンへの手紙が失われてしまった経緯を紹介して、二人の関係が「実際はどうであったのか」、どのような手段を講じようとも知り得ない領域が残ることを示唆している。

「ショパンのピアノを聴くサンド」というドラクロワの原画(二人が出会った頃の絵であるらしい)が切り裂かれて失われてしまったことは、サンドとショパンの関係(生前リアルタイムに毀誉褒貶があり、後世には、サンド側に相当不利なバイアスをかけて語られてきた)を象徴するエピソードに思える。

音楽之友社が1992年に出した「ノアンのショパンとサンド」の翻訳では、表紙に、失われたドラクロワの絵の後世の復元が使われているが、原書もこういう装丁だったのだろうか?

「ドラクロワのショパンとサンド」というようなワードで検索すると、すぐにこの後世の復元の画像が出てくるが、Wikipediaを含めて、この復元が誰の手によるもので、いつ公開されたのか、よくわからない。

切り裂かれて今では失われて知り得ない領域がある、というのが肝心なところだと思うのだが、「集合知」は、そういう裂け目に耐えることができないんだなあ、と改めてがっかりする。

大著が次々出る

ゼロ年代には学者が薄い書き下ろしの新書を量産したけれど、

(そして岡田暁生の本は単行本もこうした新書同様に一晩で読み切ることのできる分量・文体なわけだけれど、)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

最近は厚い本が目立つ気がする。

(それもあって、机の上に広いスペースがないと仕事がはかどらない。)

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

天才作曲家 大澤壽人

天才作曲家 大澤壽人

武満徹の電子音楽

武満徹の電子音楽

いわゆる「クラシック音楽」も同様に厚い本が出るようになった。

シューマン 全ピアノ作品の研究(上)

シューマン 全ピアノ作品の研究(上)

シューマン 全ピアノ作品の研究 下

シューマン 全ピアノ作品の研究 下

ベートーヴェン像再構築

ベートーヴェン像再構築

これもまた、ペラ紙の「書類」を「プレスリリース」して「イベント」の体裁を整える音楽ビジネス(そしてそのようなペラペラな紙の集積が口コミやインターネットに流される「情報」のソース・典拠であると見なされているのだから、このような営みの物理的な基盤は呆れるほど「薄い」、一昔前であれば「吹けば飛ぶような」と形容されたであろうように)への抵抗の形なのでしょうか。

一方、決定版的な大部の評伝の翻訳は時流と関係なく粛々と刊行されていて、

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

そのなかで、ショパンのこれは、日本語版の体裁は重厚だけれども、たぶん原著はむしろ薄くスピーディに読める本で、大著というより、最新の研究成果を見通しよくまとめた本と言うべきかと思いますが。

世界史のなかの西欧音楽

学生さんたちのレポートを採点しながら、現在のグローバルな情報ネットワークの海を検索ツールでサーフィンしながら「クラシック音楽」(東アジアのひとたちが20世紀後半に参入しようと夢見た「音楽の国」ですね)について語ることは極めてお手軽簡単なことだけれど、だからこそ、20世紀に形成されたこの観念を解体して、ヨーロッパの音楽の歴史を語り直す方法をきちんと教えなければいけないと思う。

「古代」が存在しないヨーロッパ亜大陸(大西洋に突きだした、いわば大きな半島ですよね)で中世に成立した音楽文化は、最初から東や南のより進んだ文明(たとえば楽譜という「紙の文化」はヨーロッパに外から伝わったと考えたほういいですよね)の肩の上に乗っているし、大航海時代=近代の躍進や植民地と連動した勤勉革命(産業革命)は上手に「外部」を利用していたし、20世紀にヨーロッパの音楽文化がグローバルな「クラシック音楽」に変換・昇格する過程では、ロシア東欧とアメリカ(そして東アジア)の役割を見逃すことができない。

もはや「世界の中心」という観念など持ち合わせていない現役の伝承者たちが肩の荷を降ろして音楽に取り組むためにも、21世紀の西洋音楽史が要ると思う。

バーンスタイン(「パン・アメリカ」の申し子は晩年に「パシフィック」の理念を打ち出した)と大栗裕(「大阪のバルトーク」といういかにもヨーロッパを仰ぎ見るかのようなレッテルを最後の10年で乗り越えた)の生誕100年、というのは、そういう構図をくっきり描くのに悪くないタイミングかもしれませんね。

大栗裕「管弦楽のための協奏曲」の謎

本日神戸で大栗裕「管弦楽のための協奏曲」が演奏されました。

資料からわかること、推測できることは解説に書かせていただきましたが、実際の音を聴くと、なぜ大栗裕はこの時期にこういう曲を書いたのか、改めて色々気になることが出てきました。

1960年代はいわゆる「現代音楽」の最盛期で国内外各地の音楽祭等で色々な作品が出て、日本のオーケストラも様々な機会に日本の作曲家の新作を取り上げて、オーケストラの書法が劇的に変化した時期だと思う。大栗裕のデビュー当時の「大阪俗謡による幻想曲」や「赤い陣羽織」「夫婦善哉」は恰好がついているし、1963年のヴァイオリン協奏曲はかなり頑張った「バルトーク様式」だけれど、「管弦楽のための協奏曲」は、やや苦しい。1970年のオーケストラ音楽としては色々足りない印象が否めないと思います。

で、ひょっとすると、無理矢理にでも一曲書かなければならない外的な事情があったのか、と心当たりを調べ直してみたのですが、どうやら、そういう形跡はなさそうです。

例えば、この作品はハープとチェレスタを使う贅沢な編成で、今回の大阪フィルの演奏会は、最後に「くるみ割り人形」組曲を置いてハープ、チェレスタを有効活用していましたが、朝比奈隆が1971年に「管弦楽のための協奏曲」を東欧で指揮したときのカップリングは、あまりそういうことを考えてはいなかったようです。

1971年1月8、9日ワイマールの演奏会は、大栗裕のオケコンのあとにグラズノフのヴァイオリン協奏曲が来て、後半はブラームスの交響曲第3番。(たぶん、かなり長い演奏会になったと思う。)

1月14、15日コトブスの演奏会は、大栗裕のあとがドヴォルザークのチェロ協奏曲とレスピーギ「ローマの泉」。(協奏曲のあとに休憩だとしたら前半が長すぎるし、協奏曲の前に休憩だと後半が長くなる。バランスの取りにくい3曲ですね。)

そして2月16、17日エアフルトは大栗裕のあとにハイドン「太鼓連打」で後半はブラームスの交響曲第3番。

3月1、2日ドルトムントの演奏会は、大栗裕のあとにラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が来て、後半がシベリウスの交響曲第2番。(これも長い演奏会という印象ですが、なんとコンチェルトが今回の大阪フィルと同じです。しかもソリストはホルヘ・ボレット。)

こうして演奏会のプログラムを見直すと、どうやら、大栗裕の新作には、「大阪俗謡による幻想曲」などと同じように10〜15分程度の序曲、コンサート冒頭のオードブルが期待されていたように見えます。

ところが大栗裕は20分を越える全3楽章の作品を書いた。

なおかつ、朝比奈隆はブラームスやドヴォルザークと組み合わせて、ハープやチェレスタは大栗裕のみで曲目を組んでいます。ブラームスの3番がメインだとチューバも要らない。エアフルトの「ハイドン/大栗/ブラームス」というプログラムだと、大栗作品だけが突出して大がかりですね。

どうやら、作品のサイズ(演奏時間・編成両面の)等を指定したオーダーがあったわけではなく、「たぶんまたオーバーチュア・サイズの単品を書くのだろう」と思って朝比奈隆が待っていたら、予想外に大きな作品が出てきてしまった。大栗裕が(誰に頼まれたわけでもなく)大きいものを「書いてしまった」、ということだったように見えます。

事前に国内で演奏されていないのは、おそらく、ギリギリまで書き上がらなかったから国内での演奏をセッティングしようにもできなかった、というでしょうから、そうすると、期日が迫るなかで、大栗裕が「今書ける/書きたいのはこういう曲で、他のアイデアはない」という風に(珍しく)我を通したのでしょうか?

出来映えの如何にかかわらず、オケコンを1曲書かないとここ(=「大阪のバルトーク」みたいに言われてしまう環境)から先に進めない、という心境だったのかもしれませんね。

(大栗裕の1960年代は、自身がほとんどなじみのない京都の六斎念仏で1曲書く企画を朝日放送のプロデューサーから持ち込まれて「雲水讃」を書き、これがきっかけで「大阪のバルトーク」と呼ばれてしまう、という「巻き込まれ型」な状況ではじまって、そこからの流れは、「大阪万博」に忙殺された年の終わりの唐突で謎めいた大作であるところの「管弦楽のための協奏曲」で半ば強引に断ち切られる。そういうストーリーを想定することができるかもしれません。そして、そのあとの70年代の大栗裕の仕事は、歌劇「ポセイドン仮面祭」にしても、「大証100年」や「聖徳太子讃」のような交声曲にしても、大阪国際フェスティバルのためのバレエ「花のいのち」も、ほとんど知られていない曲ですが「飛翔」(朝比奈隆音楽生活40年のお祝い)、「樹海」(大量の邦楽器を使うコンチェルト・グロッソ)のような管弦楽曲も、大阪市音楽団のための「神話」も、異形の大作が妙に状況にはまる幸福な新展開と見ることができるのかもしれません。)

グイード・ダレッツォと上原六四郎:理論と実践の間に分け入る人類学は、「学問vs批評」という政治談義とは別物です

「平均律」と訳されているバッハの Wohltemperiert (Well tempered) は物理学(音響学)や機械工学(楽器の改良)を導入して考案された equal temperament とは別物で、調的和声の音楽は、バロックから19世紀前半までと、19世紀後半以後(改良楽器の使用に積極的だったワーグナーやパリ音楽院以後)で基本システム(インフラ)が変わったと見るほうがいい。

管弦楽史や鍵盤音楽史の授業を何年かやって、古楽、ピリオドアプローチの実践を音楽史の記述に組み込もうとすると、そういう見取り図にならざるを得ないことがわかってきた。

岡田暁生という20世紀末の学者は近著で「とは何か?」と相変わらず大上段に構えて「クラシック音楽」を語ろうとしているが(笑)、

クラシック音楽とは何か

クラシック音楽とは何か

西欧の芸術音楽が、新しい知見によって、「既に」内側から組み変わりつつある(組み変わった形で把握され、実践されつつある)のが、清々しい21世紀の風景だと思います。

ピリオド楽器から迫るオーケストラ読本 (ONTOMO MOOK)

ピリオド楽器から迫るオーケストラ読本 (ONTOMO MOOK)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

岡田暁生がまだまともだった頃に書いた「西洋音楽史」では、グレゴリオ聖歌がほとんど民族音楽めいた異文化に思える、と書き出されているが、確かに、グレゴリオ聖歌への知的なアプローチ(グイード・ダレッツォ「ミクロロゴス」のように、思弁的・ギリシャ的なムシカをユダヤ教から続く教会聖歌の歌唱指導に導入するプロジェクト)は、日本の伝統音楽の明治以後の知的(近代的)な解析(上原六四郎「俗樂旋律考」にはじまる日本音階論)と似ている。

ただし、上原六四郎は equal temperament 以後の人(というより、equal temperamentに代表される19世紀の物理的・工学的な「音響」の科学を最新の知として学び、日本に導入しようとした物理学の人なのだから、日本における equal temperament の旗振り役と言うべきか)なので、12半音階という西欧の音楽の「物差し scale」を周波数で一意に定義するのと同じやり方で、日本の音楽に周波数で一意に定義できる「物差し scale」を見いだそうとした。

一方、グイード・ダレッツォがムシカというギリシャ流の数比論で一意に定義しようとした(そのほうが有益だと主張した)のは、scale(音階=物差し)ではなく、聖歌を歌う現場実践の mode (旋法=様相)ですね。

  • ambitus: 音域。その歌を歌うときの声の抑揚はどの程度の広がり・範囲を動くのか。
  • tenor: 主音というより保持音という意味だと思いますが、その歌はどのような調子で声を保てばいいのか。その周囲で声を動かすことになる歌の「幹」、声の張り具合はどのようなものなのか。
  • finalis: 終止。見事に声を張って(=tenor)歌われた歌をどのように歌い収めるのか。

おそらく neuma と呼ばれる身ぶりと対応づけて(=カイロノミー)口頭伝承されていたのであろう教会の歌唱指導の基礎概念は、どれも歌い手目線の実践的なもので、だから、modus 様相と呼ばれるのでしょう。

中世音楽研究会が出した『ミクロロゴス』日本語全訳の詳細な解説によると、グイード・ダレッツォが推奨したとされる「ドレミ(ut re mi)」の聖歌は、単に音名の暗記に便利というのではなく、聖歌のmodus のエッセンスが凝縮されているらしい。

グイードは、無数の聖歌を適切に歌い分ける歌唱ゲームの「効率的攻略法」を考案・伝授した人なのだと思います。

そして教会の歌のこのような様相(modus)は、世俗領域の調的和声の開発・発展の影響を受けながら、教会音楽の第一作法として18、19世紀まで伝承され続けたのだから、西欧芸術音楽は、グイード・ダレッツォの流儀で「うた」を攻略する歌唱ゲームを1000年続けていたことになる。

私には、「クラシック音楽」という近世・近代の新興ゲームは、(ちょうどコンピュータ・ゲームが遊びの広大な海に浮かぶ可愛らしい島に過ぎないように)「うた」の modus の上にちょこんとのっかっているように思えます。

物理学と対応づけられた scale に全能感を覚えるのは、現行のコンピュータの進化の先にAIが万能化する特異点(シンギュラリティ)が到来する、と信じるのと同じくらい滑稽ですしね(笑)。

ミクロログス(音楽小論): 全訳と解説

ミクロログス(音楽小論): 全訳と解説

ただし、中世聖歌の「modus という歌唱ゲーム」は、グレゴリオ聖歌を「まるで異文化だ」と突き放した上で考古学的な注意深さで発掘・復元しようとした20世紀の古楽 Early Music 運動が見いだした「新しい知見」でもある。

おそらく、日本の伝統音楽論も、同じようなコースをたどって考古学的にトラディショナルなゲームのルールを再発見しないとしかたがないのだと思うし、例えば、徳丸吉彦の三味線音楽論は間違いなく有望なマイルストーンだったと思うのだけれど、

音楽とはなにか―理論と現場の間から

音楽とはなにか―理論と現場の間から

徳丸先生の人生のまとめみたいな著作が、日本音楽学会の機関誌で、職業的な音楽人類学の視点から小姑の小言のようにチマチマと批判されたのは、人類学のダイナミズムからほど遠いくだらない出来事でしたね。

グイード・ダレッツォを参照点にすると、徳丸先生の本の副題が「理論と現場の間から」となっているのは実に示唆的だし、音楽研究はそのような「間」を探索してこそ実りある営みになると私は信じております。

第一に、分野は問わず「大学人が批評家を兼ねる」というのは、かなり「日本的な現象」であるという印象を私はもっている。逆に言えば、それが日本のアカデミズムの特徴を表している。第二に、しかしそれもすでに「過去の話」でしかない。良し悪しの判断はさておき、まずは事実認識を確認・共有したい。

この発言がなされるに至った文脈が部外者には具体的に見えないのですが、とりあえず、ここに読まれる文字の連なりは、

(1) 話者が学者であることを前提にしている

にもかかわらず、

(2) この文章は、日本の20世紀後半から21世紀初頭の「ある種の批評文」(批評空間とかゲンロンとかに見られるような)の語彙を用いて書かれている。

この文字の連なりは学問的発言なのか批評なのか? このような「ダブルバイン」で読者を戸惑わせるのは、小林秀雄から柄谷/東系統の「批評」(なんちゃってポストモダン)の亜流ですから、この文章に「批評的」に反応するとしたら、

「あらまあ、やっぱり吉田先生も批評をおやりになりたいんですね。」

とイヤミを言う、というようなことになるでしょうか。

そして一方、「学者」風に反応するとしたら、

例えば、北米にもリチャード・タラスキン(ロシア国民音楽における民謡の扱いの分析、というようなこのエントリーのここまでの話題とリンクする研究等もある)のように学者が批評を書く(ショスタコーヴィチの「証言」に関してはかなり積極的に発言していたらしい)というようなケースがある(あった)わけですけれど、これはどう捉えたらいいのでしょうか、と質問してみましょうか。北米の音楽ジャーナリズムは「日本的」な特徴を備えている(備えていた)、というすさまじい議論になるのでしょうか?

あるテーマ/分野/運動が新しい展開・シーンを開拓しようとするときには、学問と批評をリンクさせてエンパワーしたほうが有効であり、そのテーマ/分野/運動を社会・文化で安定的に稼働しようとするときには、学問と批評等々の分業を目指すほうがいい。それだけのことではないでしょうか?

そして「音楽」や「遊び」といった案件が「理論と現場の間」に焦点を合わせざるを得ないのは、「学問と批評」なる運動・政治談義ではなく、研究対象・研究領域の特質からそうならざるを得ない別の話だと私は考えています。

(「ファッション」というのは、プレタポルテの服飾デザインの「モード」のことですよね? ルドロジーの向こうを張って、モドロジーという領域横断的な学問を立てたくなるほど、当節の世の中では、mode/modus の取り扱いが混乱しております。)

「クラシックの迷宮 浪速のバルトーク~作曲家・大栗裕の生誕100年」

片山杜秀のNHK-FMの番組でも大栗裕が取り上げられましたね。

NHK大阪でやった歌劇「夫婦善哉」の最後の場が放送されり、放送用音源や「大阪の秋」国際音楽祭での「擣衣」管弦楽版など、こういう機会でなければ電波に乗らなさそうな貴重な音源が放送されていました。

NHKFM 午後9時00分~ 午後10時00分
7月8日 クラシックの迷宮 ▽浪速のバルトーク~作曲家・大栗裕の生誕100年

楽曲
「歌劇“夫婦善哉”第8場から」
大栗裕:作曲
柳吉…松本薫平、蝶子…石橋栄実、辻占い…高津綾子、おちょぼ…端山梨奈、(管弦楽)大阪センチュリー交響楽団、(指揮)本名徹次
(10分06秒)
<※2010年8月5日NHK大阪ホールで収録>

「山(NHKバック音楽集から)」
大栗裕:作曲

(2分13秒)

「行進曲(NHKバック音楽集から)」
大栗裕:作曲

(4分09秒)

「擣衣」
大栗裕:作曲
(ソプラノ)樋本栄、(管弦楽)大阪フィルハーモニー交響楽団、(指揮)朝比奈隆
(18分12秒)
<NO LABEL OP-1211>

「大阪俗謡による幻想曲」
大栗裕:作曲
(演奏)大阪市音楽団、(指揮)朝比奈隆
(12分16秒)
<東芝EMI TOCF-6018>
※「歌劇“夫婦善哉”第8場から」は(原作)織田作之助、(脚色)中沢昭二

ただ、話の内容は片山杜秀がこれまでに書いてきたことからアップデートされていなくて、「大阪俗謡による幻想曲」の作曲を1955年と推定する樋口幸弘の間違いが今回も踏襲されたのは残念なことでした。

「擣衣」は大阪フィルが50周年記念で作成したCDに入っていて、大栗裕の作品のなかではほぼ唯一といってよさそうな「現代音楽祭」向きの作品ですが、成立経緯はやや問題含みです。

声とピアノと鼓、という編成で1959年に大阪の「現代音楽研究所」(上野晃や松下眞一がやっていた)の演奏会で初演され、このときのソプラノも樋本栄。そして「大阪の秋」の松本勝男の解説によると、朝比奈隆の薦めで管弦楽編曲することになったのだけれど、オーケストレーションは大阪フィル打楽器の八田耕治に任せたようです。

スコアにもそのことは書き添えてあり、スコアの筆跡は大栗裕のものではありません。

この作品は、1960年代の「現代音楽祭」向きに体裁を整えられた録音が残ってはいるけれど、1959年というかなり初期(「夫婦善哉」のわずか2年後)の作品だと見るべきかと思います。

また、大阪フィルのCDではひとつのトラックに収まめられていますが、「擣衣」は3曲に分かれています。(1959年初演版は全5曲で、管弦楽編曲されたのは第1、4、5曲。)

それにしても、放送を聴きながら思ったのですが、現在の楽譜出版社には、こうした「現代音楽」を新たに楽譜として出す体力はないでしょうね。初演当時の手書きの譜面を使い続けるしかない。これは大栗裕の場合だけではないでしょうが。

「演奏:大阪府音楽団 指揮:大栗裕」

樋口幸弘さんの連載エッセイを読んで、大栗裕が指揮した「小狂詩曲」のCDを買いそびれていたことを思い出して、早速、中古で入手。

樋口さんの文章には、昭和40年代(1960年代後半から1970年代半ばのことなので昭和で区切るのが便利)に国内レコード各社が競うように吹奏楽のレコードを出した話が出てくるが、東芝EMIが手持ちの音源を集めた「私の青春!吹奏楽部」という10枚組のアンソロジーに大栗裕が大阪府音楽団を指揮した演奏が入っている。

ただ、ジャケットの表記は「大栗裕指揮・大阪市[!]音楽団」と間違っていますね。

f:id:tsiraisi:20180709010407j:plain:h150

この音源の初出は樋口さんの文章にも登場する大阪府音楽団のLP。

CDをもっと早く入手していたら、FM大阪の番組で使うのにちょうどよかったのに、残念。

大栗裕生誕100年企画(吹奏楽)

7月に入って、吹奏楽関係でも大栗裕特集の動きがあったようです。

NHKFM 午前7時20分~ 午前8時10分
吹奏楽のひびき ▽作曲家 大栗裕 生誕100年
中橋愛生

楽曲

「吹奏楽のための神話~天の岩屋戸の物語による」
大栗 裕(おおぐり・ひろし):作曲
(指揮)木村 吉宏、(吹奏楽)大阪市音楽団
(16分20秒)
<東芝EMI TOCZ-9195>

「大阪俗謡による幻想曲<管弦楽版>」
大栗 裕(おおぐり・ひろし):作曲
(指揮)朝比奈 隆、(管弦楽)大阪フィルハーモニー交響楽団
(12分00秒)
<コジマ録音 LMCD-1524>

「吹奏楽のための小狂詩曲」
大栗 裕(おおぐり・ひろし):作曲
(指揮)谷口 眞、(吹奏楽)天理高等学校吹奏楽部
(6分17秒)
<Sony Records SRCR-2205>

「「吹奏楽のためのディベルティメント」から第2部“ブライトリー”」
大栗 裕(おおぐり・ひろし):作曲
(指揮)木村 吉宏、(吹奏楽)フィルハーモニック・ウインズ大阪(おおさかん)
(6分05秒)
<四つ葉印 YGMO-1011>

吹奏楽のひびき - NHK

没後30年の放送には木村吉宏さんがゲストで出演していましたが、今回、中橋さんが「吹奏楽のためのディヴェルティメント」についてどういう風にコメントされたのか、聴いておきたかったです。

「BPラジオ 吹奏楽の世界へようこそ」
毎週(土)23時 FMカオン(厚木・海老名)
http://www.fmkaon.com/
毎週(日)正午 調布FM
http://www.chofu-fm.com/
ご案内:富樫鉄火(昭和の香り漂う音楽ライター)

【第101回】生誕100年、なにわのバルトーク・大栗裕の世界

<FMカオン>7/7(土)23時、7/21(土)23時
<調布FM>7/8(日)正午、7/22(日)正午

今年は、作曲家・大栗裕(1918~82)の生誕100年です。《大阪俗謡による幻想曲》などで知られ、その土得得な土俗的響きは「なにわのバルトーク」とも呼ばれました。その魅力を、吹奏楽以外の響きも含めて、あらためてたどります。

【1】 吹奏楽のための小狂詩曲(約7分)
朝比奈隆指揮、大阪市音楽団
【2】 ヴァイオリン協奏曲~第3楽章(約7分)
下野竜也指揮、大阪フィルハーモニー管弦楽団、高木和弘(Vn)
【3】 大阪俗謡による幻想曲<管弦楽版>~部分(約5分)
下野竜也指揮、大阪フィルハーモニー管弦楽団
【4】 大阪のわらべうたによる狂詩曲(約13分)
木村吉宏指揮・編曲、大阪音楽大学吹奏楽団
【5】 仮面幻想(約12分)
鈴木孝佳指揮、タッドウインドシンフォニー

こちらは、BandPower(旧Band People系)の放送。

ウインド交友録 | 吹奏楽マガジン Band Power

そしてかつてBandPeopleで大栗裕特集を手がけた樋口幸弘さんの思い出話の数々。

連載を続けて読むと、レコード・コレクション/大物来日公演の追っかけ/私が知っているスターの素顔等々、樋口さん世代の吹奏楽ライターが1970年代から1990年代に、洋楽ポップス・レコード歌謡を楽しむように吹奏楽を楽しむ構えを日本で推進していたことがわかる。淀工の丸谷先生などの歩みとほぼ同じ路線だと思う。こうして「日本の吹奏楽」は英仏をお手本にした「国民音楽」(軍楽隊)と縁を切り、20世紀「新体制」的な音楽産業をローカライズしたJ-POPの90年代に対応する「J-Winds」になった。

(樋口さんが「同時代的」に随伴した1980年代以後の吹奏楽作曲家たちには英国やオランダの人たちもいるけれど、彼らは北米・日本をも市場にするグローバルな活動を展開している。こういう風な吹奏楽のグローバリズムと大栗裕や保科洋が樋口さんのなかでどのように整合しているのか、私にはまだちょっとよくわからないのですが。)

作曲家・大栗裕 〜あなたはどのくらい、知っていますか?〜

2018年は大栗裕のアニバーサリーイヤー。
今月7月で生誕100年となります。
「大阪俗謡による幻想曲」や「神話」をはじめ、数々の名曲を遺した大栗裕。
今回はそのプロフィールから楽曲まで、クイズ形式で迫っていきます。
易しい問題からマニアックな問題まで。 あなたはいくつ答えられますか?

【作曲家・大栗裕】2018年7月

2012年の「没後30年」と今年の「生誕100年」の間に起きた出来事としては、大栗裕の吹奏楽のほぼ全作品が出版されたことか大きな変化かと思いますが、そのティーダ出版は「大栗裕クイズ」(笑)。