大栗裕生誕100年企画(吹奏楽)

7月に入って、吹奏楽関係でも大栗裕特集の動きがあったようです。* NHKFM 午前7時20分~ 午前8時10分 吹奏楽のひびき ▽作曲家 大栗裕 生誕100年 中橋愛生楽曲「吹奏楽のための神話~天の岩屋戸の物語による」 大栗 裕(おおぐり・ひろし):作曲 (指揮…

FM OH! おしゃべり音楽マガジン くらこれ「大栗裕特集」

7月1日深夜25:15〜26:15(7月2日1:15〜2:15)既に放送は終わっていますが、radiko.jp で1週間聴けるようです。●使用音源リスト 山田耕筰(大栗裕編曲)「この道」、弘田龍太郎(大栗裕編曲)「浜千鳥」 朝比奈隆(指揮)、大阪フィルハーモニー交響楽団、197…

ミューミュージコロジーの前提:北米の知識人がヨーロッパにアイデンティファイした時代

ニュー・ミュージコロジーのアンソロジーにしばしばタラスキンの論文が収録されているのが、前から疑問だった。タラスキンがロシア/ソ連の音楽に関する知見をベースにして展開する議論は確かに的確で、その前の世代を乗り越える視点を含むとは思うけれど、…

大阪フィルと大栗裕

大栗裕の没後30年記念演奏会は2012年の命日(4月18日)に近い4月20日にザ・シンフォニーホールで大阪フィルと大栗裕記念会の共催で行われましたが、今年は生誕100年で、誕生日(朝比奈隆と同じ7月9日)に近い7月11日に大阪フィルが神戸の演奏会で「管弦楽の…

書物は、なるほど「産みの苦しみ」を伴うだろうが、所持・保管するのも大変です

6月18日朝の居間の写真。左に見える大栗裕と関西の洋楽関連の資料ファイルの棚は無事でしたが、「近代日本をカルスタ・ポスコロ!」系統の本をまとめて収納している本棚が倒れた。家具調にガラスの引き戸(もちろん粉々に割れた)が付いていたので、復旧に手…

『物語のディスクール』の人類学的ディスクール

ジュネットの Discours du récit という本が日本では『物語のディスクール』の題で訳され、英語では Narative Discourse と訳されているようだが、ジュネットの序文をとりあえず日本語訳で読んでみると、やはり récit という言葉が問題であって、これは直訳…

文字も読めるし楽譜も読める vs 文字は読めないが楽譜は読める

無文字社会が紙と出会ったときに、文字の読み書きはしないが楽譜(音の記譜)は読み書きする、というように、文字と音が別立てで紙に記載される文化が成立した、という事例はあるのだろうか。そういう事例が存在すれば興味深いことだと思うし、ひょっとする…

芸術と修辞:「論理がないならレトリックを使えばいいじゃない?」

前のエントリーの続きです。東大や京大の「文学部」が(かつて?)そうであったように哲学の一領域として美学・芸術諸学を立てるときに、美学、感性論が哲学の一領域だということは(本当にそうなのか吟味しはじめるとややこしいにせよ)なんとなく納得して…

言葉で遊ぶ/パーソナル・コンピュータで遊ぶ/携帯通信機器で遊ぶ

ビデオゲームをめぐる議論に小説論を介して弁論術の概念が移植されて有望視されているらしい、と聞くと、話のつながりがすぐには見えないからびっくりするが、弁論術や小説(文学)とは言葉で遊ぶことである、と言ってしまっていいのだとしたら、人類の遊び…

歌手・言葉が前にせり出す「歌謡曲」の起源

「J-POPは歌謡曲と違ってサウンドの快楽を優先する」というのを、曲が先にあってあとで歌詞を付ける製作プロセスとリンクさせると、なるほど、と思えてしまうけれど、今ではむしろ、「かつて歌謡曲では歌手・言葉が前にせり出してバンドのサウンドが背景に退…

承前:アメリカ合衆国が移住先に選ばれた理由

去年、女性ピアニストの系譜を整理したときに、マイラ・ヘスとかワンダ・ランドフスカとか、戦後LPを通じて日本でも名前が知られていた鍵盤奏者たちが、どうやら第二次世界大戦中に、ナチスと闘う聖女、のイメージで喧伝されていたらしいことを知ったのです…

北米のパトロン:ダンバートン・オークスのロバート・W・ブリス

ダンバートン・オークスというと、音楽好きにはストラヴィンスキーのコンチェルト・グロッソで、現代史好きには国連憲章の草案が作成された実務者レヴェルのダンバートン・オークス会議。外交官のロバート・W・ブリスが引退後の住居として広大な土地を購入し…

21世紀の「曲目解説」 - ニュー・ミュージコロジーと生涯学習の間

カルスタ・ポスコロ・ポストモダンを取り入れた視点で「クラシック音楽」を語り直すのが北米流のニュー・ミュージコロジーというスローガンだったのだろうと思いますが、ふと気がつけば、西洋音楽史の授業でハイドン(ハンガリーからロンドンへ、そしてヘン…

「21世紀の市民」:芸術で「食っている」のは誰か?問題

芸術が芸能界や政財界に食い物にされるのは原理的に仕方がない、それは芸術に賦与された自律性や社会的ステータスの対価である。 少し話がずれるかもしれないけれど、現在の世の中で、芸術家のうち、芸術で「食っている」(生活している)人はほぼいないんじ…

「創られた伝統」論vs大阪に新たな伝統を創ろうとした音楽学者

複数の授業で、皆川達夫監修の「中世の音楽」という教育ビデオを批判的に吟味する、ということをやりつつある。 (a) パリの教会では今もグレゴリオ聖歌が歌われている というのがツカミの映像であり、 (b) 教会で生まれた「音楽」が教会の外にも広まった と…

記念出版

物々しいチラシが出版社から送られてきましたが、「ベートーヴェンのホルン」研究(とても勉強になった)などの既発表論文も組み込まれているのだろうか。ベートーヴェン像再構築作者: 大崎滋生出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2018/07/04メディア: 単行本こ…

Happy Birthday, Aaron Copland.

Copland conducts El Salon Mexico, New York Philharmonicバーンスタインのヤング・ピープルズ・コンサーツにコープランドの回があるのは学生時代にLDで観て知っていたけれど、コープランドは、ストラヴィンスキーらを招いた会場でガーシュウィンがラプソデ…

ロッシーニとフランス革命

カール・ダールハウスのベートーヴェン論は、要するに、ベートーヴェンは音楽におけるカントである、という立場で書かれた批判的器楽論だと思う。カントが啓蒙を批判的に吟味するように、ベートーヴェンは、18世紀末に至る器楽の伝統を踏まえてそれを批判的…

トロンボーン登場:多様における統一の構造転換

音楽と感情作者: チャールズ・ローゼン,朝倉和子出版社/メーカー: みすず書房発売日: 2011/12/23メディア: 単行本この商品を含むブログ (6件) を見るチャールズ・ローゼンは、『音楽と感情』のプロローグで、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番第3楽章の冒頭…

トロンボーンのないオーケストラ:バロック・古典派合奏音楽と科学革命

大阪フィルは昨秋の定期にシューベルト(スダーン)、ドヴォルザーク(エリシュカ)、モーツァルト(尾高)というように中欧の二管編成の作品を並べて、今年度も尾高忠明のブルックナーのあと、5月はメンデルスゾーン「イタリア」とマーラーの擬古典主義の交…

1990年代の音楽学者の意識と存在

岡田暁生や伊東信宏、片山杜秀らが台頭したのは、色々な賞を得たり、吉田秀和が彼らの存在を特別なものとして意識して動きはじめた2000年代のことだとひとまず言えるとしたら、それに先だつ1990年代には、一回り上の世代の「音楽学者」が中年過ぎてからにわ…

師と弟子、先輩と後輩の間の主従関係/下克上は楽しいか?

大学院に進学したころに、もう「先生」の枠組を追いかけるのは古いな、と思って、それでもこれと見定めた「先輩」の背中を追いかけているところがあったように思うけれど、それから四半世紀過ぎて、オペラやピアノ音楽や西欧芸術音楽の理論と歴史を今の学生…

その「大学時代の年配の先生」とは誰なのか? - 体験談の調理法について

10年程前、最初日本で(セイチェントではない)レクチャーコンサートをしたとき、大学時代の年配の先生に「あなた、ああいう難しいお話しは一般の人には向きませんよ」と言われた。が、コンサートのアンケートには「一般の人」から「講義が面白かった。もっ…

リストvsタールベルク:身体と音響の分離

前のエントリーでも書いたけれど、「リストvsタールベルク」として語り継がれてきたパリのサロンの伝説について、上田泰史さんの綿密な調査にもとづく論考は画期的だと思う。「タールベルクのアルペジオ」は、中音域に置かれたメロディーを両手で交互に取る…

東大生は「誤配」を司る

礒山雅は、音楽ホールのスタッフからのメール(彼を誉める文面であったらしい)を、「その書き方では逆の意味に受け取られます」と添削したことがあるのだとか。添削された当人は大いに感銘を受けたようだが、細かいところまで気を張りすぎるオーバーワーク…

反動のレッテルを恐れぬサロン音楽論のしたたかな構え

ショパン、リスト、クララ・シューマン、メンデルスゾーンらは、パリのサロンをスプリングボードとして利用しながらも半私半公の社交界に批判的なスタンスで、この「批判的なスタンス」こそが近代の意味での「芸術」であり、彼らの構えは、「音楽(器楽)の…

大学教授が関西の音楽ホールをプロデュース

前にも書いたが、恩師谷村晃が日本音楽学会会長を退任する最後の執行部の会合(常任委員会という名前で今もこのしくみは続いているようだ)が阪大であったときに、次年度から海老沢敏の国立音大に執行部が移るというので、引継ぎの意味で礒山雅がオブザーバ…

CDの劣化、オーケストラにとっての「シューベルト体験」

メロス四重奏団(ロータス・カルテットの師匠ですね)によるシューベルトの全集を講義で使おう思って久しぶりに棚から取り出したら、盤面が劣化していてショックを受けた。が、同じ音源をiTunes Storeですぐに買えることがわかって、もうCDの時代じゃないん…

ポスト冷戦時代のシューベルト

週末にシューベルトの「未完成」についてお話をさせていただく予定になっています。色々考えて、使いたい演奏を並べてみたら、ミンコフスキーのピリオド・アプローチをベースにして、(シューベルトを演奏しているわけではないですが)バーンスタイン、クラ…

モーツァルトとロッシーニ:レチタティーヴォの唱法、「緩から急へ」の起源

朝日新聞が大阪国際フェスティバル名義でやったロッシーニ「チェネレントラ」は藤原歌劇団のプロダクションをもってきたもので、巨大な本から人物たちが出てくる演出についてはひとしきり何かを言えるのでしょうし、脇園彩が出るのが注目、ということで普段…