「巨匠路線」? - 大阪フィルハーモニー交響楽団ベートーヴェン交響曲全曲演奏会の大植英次

11月末のベートーヴェン・チクルス3回目の交響曲7番を聴いてからずっと書こうと思っていたのですが、時間がなかったりでタイミングを逃してしまって、そうこうするうちに、もうまもなく最終回の「第九」なので、今のうちにこのシリーズについて思うところを書いてしまうことにします(長文です)。
春にブルックナーの7番(大阪国際フェスティバル)とショスタコーヴィチの5番(定期演奏会)を聴いた時から、大植さんが変わったな、とは思っていて、そのことは既にここにも書きました。

とりあえず見てすぐにわかるのは、大植さんの指揮台上での動きがおとなしくなって、切り込み隊長的に自分がオーケストラを引っぱるのではなくて、オーケストラから良い音楽が出てくるのを真ん中で待っているかのような場面が多くなったこと。

巷では2度の公演キャンセルに至った体調不良の影響で動きをセーヴしているのではないか、という観測もあって、真相がわからない以上その影響がないと言い切る資格は私にはないわけですが、でも、それだけではないような気がするんです。

というのも、例えばベートーヴェンの7番は、ただ「動かない」というだけではなくて、前に定期演奏会で取り上げた時とはまったく違うタイプの演奏だったからです。2005年4月の演奏は、あっけないくらい快適なスピードで全体をコンパクトにまとめて、楽章間もすべてアタッカでつなげていました。リハーサル(この時はお願いして見学させていただきました)でも、主にリズムのメリハリをつけるような指示が多かったように記憶しています。

ところが今回は、全体に落ち着いたテンポで、楽章間を普通に区切るだけではなくて、曲中に頻出する全休止(今回の演奏で初めて気付きましたが、この曲は全休止がとても多いのですね)では、まるでブルックナーのように、必ず会場の残響が収まるのを待ってから次へ入る。第1楽章の序奏からして、細かい刻みを貫いて二分音符の動きがくっきり聞こえてくるというように、1小節(あるいはそれ以下)単位でのリズムの「ノリ」よりも、数小節や数十小節の大きな流れを重視していたように思います。再現部へ向かう息の長いクレシェンドでも、リズミカルに煽るのではなくて、半音ずつせり上がっていく「大きな流れ=メロディー・ライン」がかなり感動的に浮かび上がってきました。

端的に言えば、往年のクライバーとか、今ならラトルあたりがやりそうな颯爽とした腰の高い演奏ではなくて、ティーレマンなんかを意識しているかのように腰を据えたスタイル。

(今のクラシック・ファンにとって「7番」のデフォルトであると思われるクライバー(金聖響さんの演奏などを聴くとどうしてもクライバーの影がちらつく)や、青春ドラマ「のだめ」のオープニングの弾けるようなイメージを完全に無視した演奏だったこと、大植さんが「自分流」のマイ・ペースを通したことが、ちょっと感動的でした。)

考えてみれば、大植英次さん自身も、もともとはキビキビしたスタイルが売りだったわけですよね。さらに辿ると、キビキビしてスリムな演奏は、若い頃の小澤征爾(=大植さんが知り合った頃もまだ片鱗があったのでは)のやり方でもあって、日本人が欧米に出て行くなら「機能美」(リズムの切れだけでなく「絶対音感」的な耳の良さを含む)で勝負するのが早道だろうということがあり、80〜90年代にはそういうフレッシュなスタイルが好まれていたということもあったりして、大植さんがスリムなスタイルだったのは理にかなうことだったと思います。

でも、この秋に大挙して来日したドイツ系劇場&オケを思い出してみると(私自身はヤンソンス&バイエルンしか聴きませんでしたが)、最近、少し流れが変わってきたのかな、と感じます。挑戦的な実験は「古楽系」(昨年大物が次々来日したような)に任せて、オレたちはモダン・オケの重厚な伝統を守る(それは作曲当時の「オリジナル・スタイル」ではないかもしれないけれど、モダン・オケにも百年近い歴史があるのだから、一定の存在意義はあるはずだ)という一種の開き直りの流れがあるような気がします。

大植さんはハノーファーが拠点のひとつですし、保守の牙城バイロイトに跳ね返されてしまった経緯(涙)があるわけですから、そういう時流の変化を感じていないはずがない。発想が柔軟で勉強熱心な人のようですし、必要性を感じたら体裁やしがらみなど関係なく行動に移す人なのは、各種イベントで実証済み。ほとんど一夜にして「変身」してしまったのは、ドイツ人がそれを求めるというのであればやってやろう、ということじゃないかと、私は想像しています。(実際にバイロイトのピットに入って、いわゆる「ドイツのオーケストラの魅力」というのもたっぷり体験したはずですし、一度はじっくり取り組んでみたい、という積極的な望みでもあるのでしょう。ベートーヴェン・チクルスを対向配置でやっているのもこれで説明がつくし、たぶん、朝比奈時代が長かった大フィルおよび大フィル・ファンにとっても悪くない話のはず。)

そして、もうひとつ。

(なぜか誰も指摘していないようなのですが)回が進む毎に、大植さんが9つの交響曲を巨大な「組曲」と捉えているらしいことが見えて来つつあるように思います。

第1、第2交響曲は前へ前へとひたすら突き進んでいく演奏で、アクセル全開が崩壊ギリギリのギャンブルにまでなっていたのが第5番。(「運命」は聴いているほうが恐くなるくらい隙間のない演奏で、およそ「名曲コンサート」風なところがありませんでした。大植さんはこの曲を普段は封印しているそうですが、特別な作品と捉えているのがよくわかる演奏。「お前たち、これはこんなに恐い曲なんだぞ!」とオケと客席に向かって凄んでいるように感じました。「お祭り男」の笑顔のイメージを完全に振り払った瞬間。)

そうして、一般の受けもよかったらしいふっくらした響きの「田園」を経て上記の7番。かなり意図的に、「5番」を折り返し点にして、9つの交響曲から成る「組曲」を前半と後半で演奏し分けているように思います。

ここからは、やや勇み足的な深読みですが、大植さんが企画したベートーヴェン・チクルスは全4回=4日がかり。そして4日でひとつの「組曲」が完成すると考えているとしたら、これはちょうどワーグナーの「指輪」(前夜+3日間)と同じ日数ということなってしまいます。さすがに、これは偶然の一致のような気もしますが、ひょっとすると、大植さんのバイロイト再登板の野望は本気なのではないか。ベートーヴェン・チクルス自体は大フィルの60周年記念イベントですが、この機会にご自身の野望への一歩を踏み出そうということなんじゃないかな、という気がします。(読みはハズレているかもしれないけれど、そういう風に考えた方が話は断然面白くなる。)

もちろん、大植さんの真意(を詮索すること)と、演奏の出来不出来=聴いて面白いかどうかは別の話。第1番の爆走はいくらなんでも無理があったのではないか。コンマスの長原クンは、相変わらず前のめりで、大植さんの「巨匠路線」に対応しきれていないのではないか。本気でドイツ風「巨匠路線」をやるには、もうちょっと管楽器などのソリスト陣に存在感が欲しい。そして正直にいわせてもらえば、大植さんの本当に良いところは、そういう「巨大化」路線よりも、第8番で不意にかいま見せたような、独特にクネクネする節回し(とっても可愛い(笑))なんじゃないか。等々と思ったりはするのですが、ここまで来たら、「第九」も完全試合を傲然と踏みにじる落合監督の勢いで(笑)「オレ流」に突っ走っていただきたいと私は思っています。

(それと、下世話な話ですが、せっかく大きな仕事なのだから、少なくともドイツにはベートーヴェン・チクルスのことが伝わったほうが大植さんの本望なのではないかな、と思ったりもします。NDRに持ちかけて、密着ドキュメンタリーの取材でもしてもらえばよかったのに、とか。チクルスのことは、どこかに記録を残して欲しいなあ、と思います。既に誰かが動いているのでしょうか? だったらいいのですが。)