『音楽芸術』臨時増刊号/別冊「日本の作曲」シリーズ(1959-1973/1999)について

芸術に限らず、一方的に何かを主張するのではない冷静な議論をするには、論証していること(できていること)と、論証していないこと(できていないこと)の仕分け・収支決算が、その都度、ちゃんとできていなければいけないように思います。

そんなことを考えつつ、1998年に休刊した音楽之友社の雑誌『音楽芸術』が日本の作曲年鑑として臨時増刊号や別冊として刊行していた「日本の作曲」について、基本的なことをまとめてみます。

  • 『日本の作曲1959』 1959年7月号臨時増刊号
  • 『日本の作曲1960』 1960年11月号臨時増刊号
  • 『日本の作曲1961→67』 1967年12月号臨時増刊号
  • 『日本の作曲1968』 1968年7月号臨時増刊号
  • 『日本の作曲1969』 1969年7月号臨時増刊号
  • 『日本の作曲1970』 1970年7月号臨時増刊号
  • 『日本の作曲1971』 1971年7月号臨時増刊号
  • 『日本の作曲1972→73』 1973年7月号臨時増刊号
  • 『ONTOMO MOOK音楽芸術別冊 日本の作曲20世紀』 1999年7月1日発行

ややこしいのですが、それぞれタイトルに出ている年号の「前の年」に関する書物です(『日本の作曲1959』は、1958年の日本の作曲について書かれている等々)。

内容は、前の年の日本の作曲に関する各種データ、編集担当者による総括と、前の年のいくつかの作品の楽譜。これは『1972→73』まで変わっていません。(『日本の作曲20世紀』は、『音楽芸術』休刊後に、おそらくかつてのスタイルを踏まえつつ編集されたものなので別格。)

そして(ここが、あとから「監査」しようとするときにとても困ることなのですが)、公平・公正・客観の立場で編纂されて、書物の作りが官公庁の刊行物みたいに無愛想でありまして、書物の成り立ちや舞台裏を推察する手掛かりが、書物そのものには、ほとんどありません。

『日本の作曲』は、○○年の日本の作曲界はこのようであった、代表作はこれとこれであった、ということが、まるで国勢調査や経済白書の数値と同等に疑いようのない「客観的な事実」であるかのように提示されている書物でありまして、最初の2年間は、日本語と英語サマリーを併記する体裁で、

しかも、

本書は日本における唯一の作曲年鑑である

との一文まで掲げられています。

でも、もし本当に「客観性」を確保するのであれば、編集者の人選、作品選定の経緯、データ収集のプロセスを検証できるような配慮が、書物自体に装填されているべきだと思うのですが、そういう風にはなっていません。

おそらく、そうした「公正・客観的な日本の作曲レポート」が目標としてあったけれど、そこまでの体制やノウハウはなく、とりあえず、できるところから取りかかった、ということなのでしょう。

(それに、戦後の新作発表があるような会は、お互いに聴きに行くのでいつも同じ顔ぶれが集まる状態だったようですし、その延長で、東京の作曲家たちの間では、今誰が冴えている、あれはだめだ、というような直観的な判断はかなり共有されていたのではないかと思います。関係者の間では意思疎通が暗黙にできているものを、これなら広い場所に出しても大丈夫そうだからというので外向けに体裁を整えた、というのが実態だったのではないかと思われます。)

書物の体裁は、既存の公的出版物をマネすれば、とりあえずすぐにそれらしいものが作れますから、まず、そこから着手したのでしょう。音楽は「模倣」から入るといいますが、ヨーロッパの交響曲やオペラをマネするように、公的機関の報告書の形を模倣するというわけですから、いかにも、日本の洋楽受容の一挿話にふさわしい企画だったのかもしれないな、と思います。

知恵を絞って「プロジェクトX」的な努力で国産自動車を作ったり、電子音楽スタジオを作ったりしたように、国際会議へ出品できるような作曲年鑑を心ある人たちが作ったのだなあ、という感じ。分厚くて迫力のある本です。

でも、その努力には敬意を表しつつ、『音楽芸術』という一出版者の商業雑誌の記述自体がそうであるように(『音楽芸術』本体についてはhttp://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091012/p1)、この本も、厳密に考えれば、公平性・客観性が担保されているのか、その土台が曖昧なのですから、いかに本そのものが「正統的な年鑑」を謳っていようとも、これを基礎資料として議論をはじめることはできない、相対的な史料のひとつだという距離感を忘れてはいけないとも思っています。やや虚勢を張った感じをもちつつ「正統」を謳って世に打ってでたことの歴史的意義、みたいなことが問題だと思うのです。

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で、そのような相対的な存在であるにもかかわらず、背景を知る手掛かりが書物から消去されておりますので、ここからは、推測を交えつつ概要をまとめてみます。

(1) 二〇世紀音楽研究所の時代(1959-1960年)

最初の2冊(『1959』と『1960』)の編集人は、柴田南雄、牧定忠、諸井三郎、吉田秀和。他に、富樫康が「資料整備」で協力した旨が記されています。

牧定忠は、NHK音楽部長をやっていたこともある音楽評論家、という理解でいいのでしょうか。他の三人はおなじみの名前ですが、柴田南雄と吉田秀和は当時二〇世紀音楽研究所を立ち上げて、軽井沢で「現代音楽祭」をはじめたところですし、諸井三郎は柴田南雄の師匠。三人とも東大出身ですが、書物の権威・信頼性を学歴で確保しようとするところが、ひょっとすると出版者側にあったのでは、とも思われますが、どうなんでしょう?

2冊とも、編集者連名の編集後記的な文章があって、巻頭には、編集者のひとりによる総括的な文章が掲載されています。『1959』は吉田秀和「一九五八年度の作曲界の回顧」。『1960』は諸井三郎「1959年の作曲界の回顧」。

この2冊は、二〇世紀音楽研究所の設立とリンクしている印象があり、日本の作曲家たちのために、単なる同人会の集合ではない「場」を作ろうとする、当時の吉田秀和の態度が反映しているように見えます。

このような「運動」がうまく機能して、60年代を迎えたことは周知の通りですから、『日本の作曲』という年鑑作りも、「運動としての戦後前衛音楽」の一環と位置づけていいのかもしれません。

(2) 富樫康が日本の作曲を俯瞰する(1961-1968年)

ところがこのあと、この名前の臨時増刊号の刊行は7年間途絶えます。どういう事情があったのかは、書物自体からはわかりません。

7年振りに出た『日本の作曲1961→67』は、ひとまず何事もなかったかのように、先行する2冊とほぼ同じ編集方針でまとめられています。

ただし、編集者は明記されず、編集後記もなく、前の2冊の「客観・公正」の装いは希薄。むしろ、ごく普通の、雑誌が特定のテーマで特集を組む別冊臨時増刊号であるかのように見えます。編集委員会が主導するのではなく、たぶん、編集部が雑誌を作る通常の工程で出来上がった書物なのだろう、という感じがします。

『日本の作曲1961→67』から『日本の作曲1969』までの3冊は、富樫康による総括が巻頭に掲載されています。富樫氏が編集の責任者として他の部分にも影響力を行使したのか、単に、日本の作曲を網羅的に追跡しているジャーナリスト的な音楽評論家として編集部から原稿を一本依頼されたのか、書物から判断することは難しいです。

ただ、ちょっと興味深いと思われたのは、『1961→67』の巻頭論文「作曲界七年の回顧」のなかの次の記述。

それ[20世紀音楽研究所]はやはりダルムシュタットのようにシェーンベルクやウェーベルンが教祖として崇められ、ポスト・ウェーベルニアンの活動の場となったことを否定することはできない。そこで彼らが活躍した約10年間というものは、日本ばかりでなく、世界の十二音楽派の活躍がもっとも目ざましかった時期として作曲史上に残るであろう。

先に書いたように、私は、二〇世紀音楽研究所の取り組みのポイントは、特定の「楽派」を打ち立てることではなく、「作曲界」とでもいうべき「場」を作ることだったのではないかと想像していますが、そのような「場」で同時代的に議論の焦点になったのが「セリエリ/ポスト・セリエル」等々の標語だったのも確かですし、そのような「問題」を論議することが「作曲界」と言うべき「場」を活性化していたのだろうと思います。「運動」というのは、おそらくそういうものでしょう。

『日本の作曲』の最初の2冊は、そのような「運動」の渦中にいる人たちが編纂した書物だったのに対して、7年のブランクを置いた『1961→67』は、その運動自体をクールに総括する言葉を見出している。そしてそのようなクールな言葉を発しうるのは、50年代末からの「運動」よりもっと前から、いわば定点観測的に日本の作曲家を眺め続けていた富樫康氏のような人だったということだと思います。

(3) 「オレにも言わせろ」座談会(1969-1973)

このあと、『日本の作曲』というタイトルの臨時増刊号は、1973年まで4冊作り続けられます。全体の構成はほとんど同じですが、巻頭の総括が、『1969』で、それまでの個人論文から、座談会に変わっています。メンバーは、このシリーズに最初からかかわってきた富樫康に、秋山邦晴、佐野光司、丹羽正明を加えた4人。最後の『1972→1973』だけ、さらに武田明倫が参加しています。

野次馬的な観点でいえば、志ある人物の立ち上げた企画が十年経って代替わりして、集団指導体制へ移行する、という、いつどこの組織に起きても不思議ではない経年変化のセレモニーが行われたような印象を受けます。

このような儀式は、外野席から眺めていると「人材が小粒になった」と見えるわけですが、当事者サイドの論理としては、「やっと俺たちの出番が回ってきたぜ」と次世代が張り切ることで、「場」の再活性化が期待される、ということなのでしょう。年功序列社会は、そのようにして回っていくわけですね(笑)。

言説空間の「現代」とその不可避的な「凡庸さ」は「二代目」によって作られる、という蓮實重彦の物語論を連想させたりもしますが……、

物語批判序説 (中公文庫)

物語批判序説 (中公文庫)

凡庸な芸術家の肖像〈上〉―マクシム・デュ・カン論 (ちくま学芸文庫)

凡庸な芸術家の肖像〈上〉―マクシム・デュ・カン論 (ちくま学芸文庫)

凡庸な芸術家の肖像〈下〉―マクシム・デュ・カン論 (ちくま学芸文庫)

凡庸な芸術家の肖像〈下〉―マクシム・デュ・カン論 (ちくま学芸文庫)

いかにも「オレにも言わせろ」と頑張りそうな、そして実際に、その後80年代まで、人によっては90年代くらいまで頑張り続けられた方々が名前を連ねていらっしゃるのが興味深く思われます。

ここでも、富樫康さんの発言は味わい深いです。このシリーズの最後になった『1972→1973』の巻頭座談会の最初に、こんな発言があります。

1971年と1972年は新作を発表する機会が非常に多くて、演奏会名とそのとき発表された新作の目録をつくりましたら、500字詰原稿用紙に23ページという量になりました。どなたも2年前の出来事や、音楽の内容をはっきり覚えていることは困難なことで、ちょっと無理と言えば無理なんですけれども、記憶をたどり、あるいは録音があったものは録音を聴いていただいて、きょう集まっていただいたわけです。

淡々と身に起きた事実を綴っていらっしゃるだけなのですが、この発言だけで、「日本の作曲」という企画がもはや個人で俯瞰できる分量を超えつつあったことがわかります。巻頭の総括が座談会になったのは、個人でフォローしきれない、という事情があったのでしょう。

それから、それぞれの時点で、それぞれの立場の思惑が絡み合って続いたと思われる十数年の企画のあいだ、富樫さんは、毎年毎年、「演奏会名とそのとき発表された新作の目録」を作り続けていらっしゃったんだなあ、ということがわかります。

他に誰がこんな作業をしていたか、これから誰かがこういう作業をできるか、ということですよね。

『1972→1973』は、「オレにも言わせろ」な皆さんが大量に発言していらっしゃいまして、巻頭座談会が新書一冊分になろうかという量に膨れあがっています。

なるほど、こんな風になってしまったら、もう一介の出版社の音楽雑誌が『日本の作曲』の企画を続けるのは無理でしょう。富樫康さんに、お疲れ様でした、と最大限の感謝の思いを捧げつつ、幕引きをするのが礼儀というものでしょう。

(それにしても、富樫さんがここまでつきあっているのに、吉田秀和や柴田南雄は、いつの間にかいなくなって……。幹部候補生が現場の業務を短期間の研修で切り上げてどんどん出世するかのように彼らのほうから離れていったのか、出版者の側で、もう吉田・柴田は要らないと判断したのか、よくわかりませんが……。)

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もともと、『日本の作曲』という書物のことにこだわる発端は、『日本の作曲20世紀』に大栗裕が載っていない、何故?ということでありまして、

この件については、大栗裕のことを当時の編集者があまりよく知らない、適当な書き手もいない、楽譜もほとんど出ていないし……、というような小さな理由が積み重なった結果で、何か理路整然とそこから何かを読み取ることはできなさそうな気がしていますが、

音楽之友社の出版事業がどういう土台の上でなされてきたかということは、翼賛体制下の国策会社として出来たこととか、60年代の「運動」に上手に乗っかったこととか、主題的に整理しておいたほうがよさそうなことが色々あるように思うんですよね。

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戦後日本の作曲に関する「研究」として、、既に書かれたもの、公表されたもの(たとえば、上記の富樫康さんなどの先達によって既に一旦整理されたもの)をもとにした収集・リストアップの作業(いわば、二次編集)は、現在、かなり厳密・熱心に行われ続けているようです。

でも、当然のことながら、そうした二次的なカタログは、業績として喧伝はできるし、上手くプレゼンすれば、何等かの物事を有利に運ぶ材料にはなるのかもしれませんが、それ自体は、読んでも大して面白いものにはなり得ない。狭くて窮屈な閉鎖空間という感じがしてしまいます。

感覚的に、この窮屈感は、一昔前の日本のクラシック音楽関連書の堅苦しい感じに似ている気がします。西洋音楽の研究や評論は、かなり頑張って物事の風通しを良くしてきたと思うのですが、ここにはまだ、堅い殻が残っているのだなあ。最後の牙城。どこから手を付けたらいいのだろう、といつも読みながら思ってしまいます。

とりあえず、いかに誠実であったにしても、富樫さんのような人がフォローしきれなかった領域が確実にあります。

というより、現実に、大栗裕は、大量に楽譜を書いて、それなりに演奏され、人々の記憶に刻まれているのに、それが言及されていなかったり、楽譜が出版されないままで今日に至っています。注意して周囲を眺めてみると、どうやら他にもそういう例はあるみたい……。

戦後日本は民主主義で再出発して、機会均等になったとはいいますが、それでも少なくとも音楽に関して、すべてが書かれ、すべてが公表され、すべてが記録されたわけではない。音楽ジャーナリズムや楽譜出版・音盤制作に関して、何が書かれ、記録されたのか。そして、何が書かれず、記録されなかったのか。「出たもの」と「出なかったもの」の境界線を、ひとつずつ、再チェックして、そこに作動している力学を探り当てるべきだと、私は思っています。

伝え聞くところでは、二次編集的なデータベース作りは、結果がはっきりした「形」になることもあって公的な助成とかが付きやすいらしいのですが、本当に労力を割くべきなのは、そこではないんじゃないか。

情報と情報化は別だ、という言い方をするとしたら、その種のデータベースは、既に「情報化」されたもの=情報の編集作業に過ぎません。そうではなくて、戦後日本の音楽のあるものが、「情報化」されたり、されなかったりしたプロセスを検証することが、戦後日本音楽研究で一番求められていることであるように思います。

(ついでに要っておくと、そういう検査・検証・監査の作業を、暴露的に、スキャンダラスにやってしまうのは、ジャーナリズムな文章として成立させるレトリックとしてやむを得ない場合もあるかもしれませんが、リサーチとしてはかえってそれが逆効果になることもありそう。以前『ExMusica』に掲載された武満徹「弦楽のためのレクイエム」のエディション問題に関するレポートは、テーマとしては大事なことなのに、結局、スキャンダル的にも読める文章になっていて、そこが一番の不幸だなあ、と思いました。

ケース・バイ・ケースで、難しいことが色々あるのだとは思いますが、ひとつずつ解きほぐしていかなければ先へ進めないのですから、原則論よりも各論で、とりあえずできるところから気長にやったほうが結局はうまくいく、そういうものであるような気がしています。)