とりあえず、目下の私のつとめは月末の講演会の宣伝だと思っておりますので、まずはリンクの再掲。
大阪市立中央図書館 連続講座「おおさか興味深深(しんしん)」第2回:「「夫婦善哉」がオペラになった!?―大栗裕と大阪の洋楽史」
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000085911.html
http://www.oml.city.osaka.jp/topics/kouen2010.html
4回シリーズの1回です。
場所は地下鉄西長堀駅と地下道でつながっていて、便利が良いです。入場無料。是非。
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さて、そして8/5は、NHK大阪で大栗裕の「夫婦善哉」を、抜粋とはいえ遂に実際に観る機会になったわけですが、同じ日の昼間、コンヴィチュニーがびわ湖ホールで何かやっていたらしい時分に、わたしは、いくつかの写真と挌闘しておりました。
[8/9 文章の真ん中あたりに、戦後の日響で大栗裕と短期間一緒だったこともある千葉馨について、追記しています。]
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大栗裕は、作曲家として世に出るまで、戦前から東京と大阪でオーケストラのホルン奏者をしていました。そのことは、どのプロフィールにも書いてあります。
「1940年に家出同然で上京して、1941年に東京交響楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団)に入団。1946年から日本交響楽団(現・NHK交響楽団)、1949年宝塚歌劇団を経て、1950年から1966年まで関西交響楽団(1960年に大阪フィルハーモニー交響楽団と改称)の首席ホルン奏者を務める。」
ということになるわけで、私も何度かそう書いてきました。が、年号と役職名を年代順に並べた履歴・プロフィールというのは、文字だけだと、どうにも実在感がないんですよね。
(演奏会プログラムの音楽家のプロフィールは、受賞歴や留学歴などを並べたインフレ状態で、結果的に、どれも一緒に見えてしまいます。大栗裕のホルン歴も、この書き方だと、そんな風に読み飛ばされてしまいかねない。)
プロフィールを面白くプレゼンすることはできないものか?
大栗裕のホルン奏者としてのキャリアを裏付ける写真、要するに、オーケストラでホルンを吹いている写真はないものだろうか、と各オーケストラの資料をざっと当たってみました。
「今夜は夫婦善哉だ」とそれなりに浮ついた気持ちになりつつ、ひとりでそんなことをしていたのでした。
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いくつかの空振りを経験しつつ見つけ出したのは以下の3つです。
(1) 東京交響楽団、1942年(昭和17年)2月13日、日比谷公会堂
『東京フィルハーモニー交響楽団80年史1911-1991』(1991年)という本は、年史と資料部分をあの『日本オペラ史』の増井敬二さんが担当しています。
- 作者: 増井敬二,昭和音楽大学オペラ研究所
- 出版社/メーカー: 水曜社
- 発売日: 2003/12/25
- メディア: 単行本
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楽団記念誌は色々みましたが、そのなかでも、東フィル80年史は資料の充実と読みやすさを両立した抜群の好著という気がしてます。
名古屋のいとう呉服店(のちの松坂屋)の少年音楽隊がオーケストラに拡張されて中央交響楽団になり、東京進出、戦後アニー・パイル劇場に関わったりした波瀾万丈の楽団史は、たしかに、調査のプロが取り組むに値する仕事に違いないと納得。ともあれ、楽団が東京交響楽団に改称したのが1941年です。
大栗裕の名前は、1941年9月12日、日比谷公会堂での東京交響楽団第1回定期演奏会のメンバー表に出てきます。1940年の皇紀二六〇〇年祝賀演奏会には、まだ彼の名前がありません。1940年に上京してしばらくしてから(最初は諸井三郎に入門したかったけれどかなわなかった、と後年大栗裕は語っています)、新体制で旗揚げした東響に新規入団した、ということなのだろうと推察されます。
第1回定期の内容は、グルリットの指揮で、ワーグナーのタンホイザー序曲とヴェーゼンドンク歌曲(独唱:木下保、となっています)、リストのファウスト交響曲。プロのホルン奏者一年生で、大栗裕はいきなりすごい曲目を吹いていたようです。
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そして当時の写真はないかと探してみますと、58頁にオーケストラの全体写真が出ていました。(雰囲気だけでもつかんでいただきたくて、画質を思い切り落とした上でサムネイル風画像を出しています。現物図書は音楽関係図書館で入手・ご確認いただけるはずです。)
キャプションは以下の通り。
戦時中に日本人の指揮が多くなった。昭和17年2月13日に橋本国彦の指揮で「未完成交響曲」ほかを放送。(小亀桂二氏所蔵)
写真を拡大してみますと、ホルン奏者2人のうち、向かって右側(ということは1st奏者か)が、黒縁メガネにオールバックで、どうやら大栗裕であるようです。
戦後のおなじみの風貌にくらべると、ずいぶん痩せていますが、引き締まったアゴのラインは、ご遺族から今年の春に寄贈していただいた少年時代の写真(←大栗文庫紹介パンフレットにも使われています、パンフレットは現在大阪音大付属図書館窓口でもお分けしています)とそっくりなので、若い頃はこんな感じだったのでしょう。
……ということで、当時23歳の大栗裕が、東京音楽学校作曲科の花形教授、橋本国彦と同じ舞台にのっていたことがわかります。
(2) 日本交響楽団、1948年(昭和23年)5月19、20日、宝塚大劇場
東京交響楽団は戦争末期、1944年末には活動を停止したようです。大栗裕もおそらく応召したと思われます。1946年の日本交響楽団入団までブランクがあるのはそのためでしょう。
[追記:ただし、大栗裕の日本交響楽団入団が「昭和20年4月」としている資料もあり、まだ断定はできません。服部正は自伝で、東京交響楽団が事実上解散した後、団員たちが東京の各団体へ移籍した、と書いています。これが事実で、大栗裕が東京に残っていたとしたら、戦争末期に日響に入ったの「かも」しれません。]
日本交響楽団には、1949年の宝塚歌劇団入団から逆算すると1946年[あるいは1945年]から1948年まで在籍した可能性がありますが、N響が出している『NHK交響楽団40年史』(1967年)と『NHK交響楽団50年史』(1977年)には、そもそも在籍団員に関する資料がなくて、口絵写真にもこの時期のものはありません。戦前・戦中から1950年代に飛んでいて、この頃は既に、千葉薫(1949年正式入団)らの時代です。
そこで、大阪音大の音楽博物館が所蔵する関西の演奏会資料から、日本交響楽団の関西公演の資料を当たってみることにしました。
(1950年までの資料は、貴重資料扱いになっております。このような小さな疑問の探索のために、わざわざ資料を見せていただいた音楽博物館に心よりの感謝です。本当にいつもお世話になっております。)
N響の公式記録によると、日本交響楽団の関西での演奏は、1946年6月11-14日、10月8-11日、一年飛んで1948年5月17、19、20日、8月6日、翌年1949年はたくさんの公演があって、3月30、31日、5月17日、6月3、4、5日。8月6、28、29日、11月24、25日。
このうち、1946年10月分と1948年11月分の演奏会プログラムに、オーケストラの全体写真が掲載されていました。1946年分が写真が小さく、画質もよくなくてメンバーの顔を特定するのは無理だったのですが、1948年分の写真は大きく高画質で、なんとか個人を特定することができそうです。4人のホルン奏者の向かって一番右(1stでしょうか)が、例によって黒縁メガネにオールバックで、大栗裕であるように思われます。(ホルンの席の周辺だけ切り抜いて仮に掲載していますが、正式の公開はしかるべき場・タイミングをお待ちください。)
写真のキャプションは、
1948年度関西公演から(新大阪新聞主催) 5月19・20日宝塚大劇場にて
この日(5/19,20)の演奏会の内容は、尾高尚忠の指揮で、オール・チャイコフスキー・プロ。幻想序曲「ロメオとジュリエット」、ヴァイオリン協奏曲(独奏:江藤敏哉)、交響曲第6番「悲愴」。
主催の新大阪新聞は出資元が毎日新聞で、同社から派遣された小谷正一が切り盛りして、夕刊紙「夕刊新大阪」を発行していました。のちに大物プロデューサーになる小谷正一は、井上靖「闘牛」のモデルになったとされる人で、次々イベントを企画して、羽振りがよかったみたいです。野球場で、井上靖が小説にした闘牛だけでなく、オーケストラの野外コンサートもやったようです。演奏会プログラムの写真は、当時としては破格に高画質。そんなところにも、同社の勢いが感じられます。
当時、大栗裕は満30歳。横顔は、先の東響時代と同じく、まだ中年太りする前でなかなか精悍です。
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この写真には、ほかにも気になることがあります。
ホルンの一番左(おそらく4th)の奏者は、広いオデコ、背筋をピンと伸ばした姿勢、左の脇をぐっと締めて楽器をカラダに引きつけ気味に構える姿など、私には、千葉馨であるように思えてならないのです。
ウィキペディア「千葉馨」の項目は、
大学の頃から日本交響楽団(現:NHK交響楽団)の研究員として入団、1949年東京音楽学校卒業と同時に正団員となった。
千葉馨 - Wikipedia
となっています。1948年5月、千葉馨は、まだ音楽学校在学中ながら団員同然に扱われていて、大阪公演にも同行したということなのでしょうか。
まもなく大阪へ戻ることになる大栗裕と、のちに来日したカラヤンが一度はベルリン・フィルへの引き抜きを考えたと言われる千葉馨が、日響の同じ舞台にいたことがあるようなのです。
[8/9 追記] ただし、このCDの解説は、千葉馨をやや過剰に偶像視しているようなところがちょっと気になります。
- アーティスト: 千葉馨,外山雄三,モーツァルト,長岡慎,岩城宏之,東京ホルンクラブ,NHK交響楽団,伊藤清,田中千香士,植村泰一,本荘玲子
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2008/09/26
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今回1950年代以後のN響の写真もいくつか調べました。
最近のオーケストラでは、若手奏者をいきなり抜擢してトップに据えるケースがあります。CD解説は、まるで千葉馨もそうであったかのように、千葉馨がN響入団でいきなり大活躍であったかのように書いています。
でも、実際のN響の写真を調べてみると、1956-58年の留学以前は、千葉馨が1stを吹いていないケースが見つかります。
N響の『40年史』『50年史』に掲載された写真をみるかぎり、1951年11月15日のN響25周年記念演奏会(指揮:クルト・ヴェス)や1953年10月のジャン・マルティノンが指揮する演奏会における千葉馨は2nd。カラヤンは来日時に千葉馨を評価したそうですから、1954年にはトップ奏者になっていたのだと思います。1955年3月18日のオイストラフとの共演の写真(指揮:エッシュバッハー)で、千葉馨が1stを吹いている姿を確認できます。
外山雄三のN響入団は1952年、岩城宏之は同年に東京藝大に入ったばかりです。彼らが日響時代やN響(1951年に改称)初期の千葉馨について、どこまで具体的に知っていたのか、後輩からみた「憧れの先輩・千葉馨」のイメージに頼りすぎるのは危険かもしれないと思います。優れた演奏家ではあったのでしょうけれど。
(千葉馨ご本人の口ぶりは、彼を偉い人にしておきたい諸々の思惑と関係なく率直でとても興味深いです。カラヤンが単身来日してN響を指揮したのは1954年。ここでカラヤンは千葉馨を知ったと思われ、留学は1956年。デニス・ブレインの死去は1957年。http://www.dennisbrain.net/kaoru_chiba.html)
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話は飛びますが、1984年8月9日、大栗裕の没後2年経ってから、森ノ宮のピロティホールで、「故大栗裕先生をしのぶ音楽会 ホルン・フェスティヴァル形式による」というコンサートが開かれています。生前の大栗裕に縁のあった全国のオーケストラのホルン奏者やお弟子さん筋の人たちが集まった、プログラムを見るだけでもあたたかい気持ちになってしまう演奏会です。
このとき、既にN響を定年退職して新日フィルに移籍していた千葉馨は、大栗裕の「ホルン合奏のための馬子唄による変装曲又はホルン吹きの休日」という作品で、独奏パートを吹いています。(「変装」は変換ミスではなく、自筆譜にそう書かれています。)
この作品自体は、大阪音大で大栗裕に師事して、大阪フィルの首席奏者を引き継いた近藤望さんの欧州留学のお祝いに、1977年に作曲されました。大栗裕が亡くなったときの偲ぶ会にも、弟子筋を中心とするホルン合奏が参列したそうです。やはり、大栗裕の音楽家としての原点はホルンだったし、ホルンのオケマンの人たちとの絆が強かったのだと思います。
日響時代の大栗裕は、やっぱり千葉馨とも接点があった。そのように考えてよさそうです。
(そしてここから先は、オケマンの皆さんの強い絆のなかへ割り込むようなことになってしまうのですが、大栗裕の日響退団が1948年で、千葉馨の正式入団が翌1949年なのは、偶然なのか、どうなのか。のちに大阪フィルでは、弟子の近藤さんが入団したことで、「後進に道を譲る」ようにして大栗裕は退団しました。日響でも、10歳下で圧倒的な実力をもつ千葉馨が出てきたタイミングで「席を譲る」ような感じがあったのでしょうか。
こうしたオケマンの進退は、部外者からはわからない呼吸やニュアンスがあるものだと思いますので、これ以上はよくわかりません。
天王寺商業学校時代から作曲を試みていた大栗裕にとって、上京以来、本当の志望が作曲家になることだったのは間違いなく、1948年頃、おそらく要因をひとつにしぼることができないであろう諸状況から、そろそろ東京での演奏活動は潮時、と考えたのかな、と想像しております。
もしかすると、実家からそろそろ戻ってこいという話があったのかもしれませんし、他に何か、関西でやっていく可能性を彼なりに見通していたのかもしれませんし……。逆に、東京での仕事を打ち切らざるを得ない何かがあったのかもしれませんし……。)
[追記:『N響80年全記録』で佐野之彦さんは、戦後の日響は欠員を補うためにツテを頼って東京中の音楽家に声をかけていたらしいことを指摘しています。大栗裕も、そんななかでスカウトされたのかもしれませんね。
また同書は、当時の楽員の証言から、日響が公演、放送、映画録音の過密スケジュールで、それでも収入は安定せず、正規の仕事のあとで楽員がグループに分かれてGHQの将校クラブ回りのアルバイトをしていたことも伝えています。(同じような話は、50年史でも紹介されています。)
N響の自らの歴史に対する現在の公式見解を見ていると、敗戦後の混乱期を封印したいかのような雰囲気があり、あれは「本来のN響ではない」ということにしたいがために非常事態ぶりを強調しているようにも思われ、鵜呑みにはできないですが(たとえばN響の歴史のなかでは劣悪な待遇だったかもしれないけれども、同時代の他の音楽家に比べれば、やはり日響団員は恵まれていたのかもしれませんし……)、
それでもあるいは、大栗裕は、日響の激務薄給の生活を続けるのは先の見えない大変すぎることだと思ったのかもしれませんね。
または逆に、徐々に世の中が落ち着いてきたときに、いわば戦後のドサクサで得たポジション(そうして入った連中をよく思わない幹部がいてもおかしくない)にいつまで留まることができるか、冷静に判断したのかもしれませんし……。日響の約3年は、特殊な時期ではあったのでしょう。]
- 作者: 佐野之彦
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/09
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いずれにしても、大栗裕が東京でホルン奏者として過ごした20代は、戦中戦後の混乱期とはいえ、グルリットらが活躍して、オーケストラ活動が充実していた時代ではあります。後世から振り返ると異常な時代ではあったにしても、オケマンとして当時の日本で望みうる最良の環境にいた。オーケストラ運動における一軍選手だったと言ってよさそうです。
橋本国彦や尾高尚忠、千葉馨と一緒に写っている写真は、そのことをリアルに感じさせてくれます。
(オケマン出身で管弦楽法の達人、という点で、大栗裕のキャリアは、ペテルブルクでヴィオラを弾いたりしていたレスピーギと似ているかもしれません。作曲家になってからは、母国イタリアの歴史にとっぷり浸かるようになったことを含めて……。
「俗謡がレスピーギを連想させる」という岡田暁生さんの2005年の讀賣新聞での指摘(岡田氏が欲ボケして「音楽の型」と俗受けを狙いはじめる前の、冴えていた時代の指摘)は、そうした方向へつなげていく可能性がある直観だったかもしれません。)
(3) 関西交響楽団1956年(昭和31年)8月20日、産経会館
1949年の宝塚歌劇団時代の大栗裕の足跡については、現在、まだ一切不明です。いずれ、作曲家としての宝塚歌劇団との関わりとあわせて調べてみたいと思っていますが、今後の宿題です。
1950年の関西交響楽団入団以後の足跡については、大阪フィルに膨大な資料があり、概要がわかっていますし、今から新しく何かを見つけるのは難しいかな、と思っています。
が、
先日、歌劇「夫婦善哉」の初演データを確認する過程で、一枚の写真が見つかりました。(歌劇「夫婦善哉」の初演は1957年、産経会館。関西歌劇団としてははじめてになる一晩ものグランド・オペラの新作。ホールに開館5周年事業として援助してもらうことは、資金面で助けになったのかもしれません。)
産経会館は、この年に『産経会館5年の歩み』(1957年)という書物を出しています。そしてページを繰っていると、公演写真集のページにこんなものがあったのです。(現物図書は、大阪の大きめの公共図書館に入っていると思います。)
キャプションは、「朝比奈隆帰朝記念演奏会(8.20 大阪)」となっています。(わざわざ「大阪」と断っているのは、この本が、大阪・産経会館と、そのあとで開館した東京の産経会館の両方を扱っているせいです。)
「俗謡」に関連して、これまでにも何度かご紹介してきた演奏会です。
http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20090226/p1
この演奏会プログラム等は把握していたのですが、舞台写真は初めてみました。8月のコンサートなので、指揮者も楽員も白のスーツ姿だったようです。
詳細は上のリンク先でご確認いただきたいのですが、朝比奈隆が6月にベルリン・フィルでやったのと同じ曲目を再現した演奏会です。日独国歌演奏ではじまったのですが、写真では、舞台後方に日独国旗が見えます。この写真が8/20のものなのは間違いなさそうです。
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しかもこの写真、よくよく観察してみますと、チューバが入っていますし、3人いるフルートのうち、2nd,3rdの二人がピッコロに持ち替えています。トランペットがミュートを付けていたり、チェロとコントラバスがピチカートだったり、随分特殊なオーケストレーションです。打楽器は4人います。
どういうことか?
この日の曲目から考えると、チューバが堂々と吹いていますから芥川也寸志の「弦楽のための三楽章」やベートーヴェンの交響曲第4番ではあり得ませんし、ピアノは舞台後方に置いてありますから、ピアノ協奏曲でもない。「君が代」やドイツ国歌は、どのようにアレンジしてもトランペットがミュートを付けることはなさそうですし……、
消去法で考えても、「大阪俗謡による幻想曲」の演奏風景だと思われます。そしてスコアと照合すると、冒頭部分を吹いた直後なのかもしれません。(記録用の舞台写真は、曲の最初の方でさっさと撮ってしまう、というのは、いかにもありそうなことですし。)
「大阪俗謡による幻想曲」の初演は5月の神戸新聞会館。その後、ヨーロッパで2回演奏して朝比奈隆は8月に帰国。京都丸山公園で一度、やったあと、この8/20の演奏会は、「俗謡」の史上5回目、国内では3回目の演奏。地元大阪でははじめての演奏になります。その演奏がまさにはじまった直後の写真であるようです。
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しかも、写真を拡大してみますと、大栗裕がオケのなかにいます! 4人いるホルンの向かって左から2人目、3rdを吹いていたようです。大栗裕は、自作の地元での初披露のコンサートに、自らホルン奏者として参加していたようなのです。(ホルン・ソロのある1stを他人に譲って、3rdを吹いているところが、いかにも大栗裕っぽい。)
さらに、指揮台には大判スコアが載っています。おそらく、朝比奈隆がベルリン・フィルに献呈したうえでこの演奏のために一時持ち帰った初稿スコア(今では所在不明になっている……)だと思われます。
ただしチャンチキは舞台には見えません。朝比奈隆は楽器をベルリン・フィルに預けた、と発言しているので、この時はチャンチキなしで演奏した、ということなのでしょうか? このあたりは、もうすこし調べなければ何ともいえません。
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このとき、大栗裕は既に38歳になっていました。恰幅がよくて、私たちが写真で知っている人なつこいオッチャンの雰囲気がにじみでております。
舞台上での様子も、たまたまこの瞬間がそうだったのかもしれませんが、正面を向かずにややダラっとした感じの姿勢です。3年前には、定期演奏会でモーツァルトのホルン協奏曲のソロを吹いたこともありますし、楽団のなかではそれなりの存在感があったのかもしれません。(数年後に入団した方から、新入りで周りになじめなかったときに大栗さんが気を遣って守ってくれた、との話も伺いました。)
わたしたちの知っている大栗裕はここからあと、「赤い陣羽織」と「大阪俗謡による幻想曲」を発表したあとのことであって、この昭和30年前後を大栗裕のスタート地点と思ってしまいがちですが、
その前に東京と大阪でそれぞれ7、8年のオケマン生活を経て、もうまもなく厄年、という年齢です。
『音楽之友』では、「赤い陣羽織」東京公演の頃の紹介記事で「この若い作曲家はさすがに賢い人である」と書かれています。これは、大栗裕をよく知っていたはずの柴田仁の記事で、東京向けに新人として売り出した方がいいとの配慮かもしれませんが、実際には、ここからはじまる作曲家・大栗裕のキャリアは、ひととおり演奏生活を経験したうえでの、文字通り「第二の人生」と見たほうがよさそうです。
新しいことに飛びつくのではなく、腰を落ち着けて相手とつきあいながら落としどころを決めていくような音楽の作り方は、戦後世代の若手と違う、中年っぽいやり方と言えるかもしれません。
朝比奈隆は10歳上ですから、ベルリン・フィルを指揮したときは既に48歳。武智鉄二が関西歌劇団で創作歌劇をやったのは42歳から45歳にかけて、ということになります。1950年代の関西の歌劇は、中年のオッサンたちが「遅れて来た青春」を謳歌していたわけです。
「修禅寺物語」初演時の出演者・スタッフの集合写真(清水脩、朝比奈隆、武智鉄二、坂東鶴之助(現・中村富十郎)らが一同に会している)も見たことがありますが、「1950年代=熱く燃えるオッサンの時代」というイメージは、1960年代との対比で頭に置いておいたほうがいいような気がします。
1950年代には、「世代間の文化のセグメント化」は、まだはっきりしていない。学生も社会人も家族連れもごっちゃになった状態が、服部良一の流行歌や労音や創作オペラ運動、野球場での納涼大音楽会の土台だと思います。当時の日本映画も間口が広い。若者向けに尖ったものが出てくるのは60年代からですね。
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……というわけで、ふとした思いつきでやりはじめたホルン奏者時代の大栗裕の写真さがし。思わぬところで、思わぬ出物が見つかってしまいました。
8/5は、「夫婦善哉」を聴いた、というのとあわせて、わたくし個人としては、「俗謡」が大阪で初めて演奏された風景をはじめて写真で確認した日でもあったのでした。
また一歩、大栗裕の実在感が増したような気がしております。