本当は脆いクラシック音楽(大阪交響楽団第153回定期演奏会)

[追記あり]

「シュテファン王」序曲、マーラーの管弦楽歌曲、ベートーヴェンの12番のカルテットで、シンフォニーも標題音楽もないオーケストラ・コンサート。寺岡清高の指揮によるユニークなコンセプトのシリーズ。

詩を語る人間の声は、管楽器がプップ〜♪と硬いアクセントで吹いたら途端に聞こえなくなってしまいますし、羊の腸を馬の尻尾で擦って作る四声体は、細いラインでストラクチャーを浮かび上がらせるようでもあり、擦る音の濃淡を愉しんでいるようでもありますが、ちょっと油断するとグシャグシャになる。

考えてみれば、劇場や宮廷のダンスも、映画『王は踊る』では役者さんがカンフーみたいにポーズを決めていましたけれど、舞踊譜などから復元したパフォーマンスを見るかぎりでは、ほとんど力を感じさせずに「垂直に飛ぶ/水平に移動する」、「動く/止まる」を組み合わせた幾何学的なゲームであったように思えます。

革命で兵隊さんがどっと劇場に押し寄せて、マーチやファンファーレがバカスカ鳴る芝居が上演されるようになって、ベートーヴェンがオレにもやらせろ、とばかりに書いたのが彼の劇場音楽なのだと思いますが、

歌曲と室内楽は、そういう公衆の雑踏から隔離するようにして、親密な空間に温存されたジャンル、ということに、ひとまずなるのだと思います。

マーラーのオーケストラ歌曲は、管楽器に東欧のクレズマー楽団風にブカスカ吹かせて声と楽器のバランスを故意に危険にさらそうとするところがありそうですし、室内楽の延長で弦楽合奏をやってみようとするときに、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲はかなり際どい選曲だとは思いますが、

脆く壊れやすいものを大ホールへもってきて、壊さないように演奏することに挑戦してみましょう、ということだから、地味ではありますけれども、チャレンジングですね。

しかもこういうタイプの音楽は、指揮者が「こうやれ」と指令すればうまくいくというものではない。

後半は休みだから出番はここだけ、と思ってひな壇に乗っている管楽器の皆様は、どうすれば、数メートル前方で背中を見せている歌手様の声と納得して合わせる気持ちになってくださるものなのか。

何十人もの弦楽合奏が音楽のテクスチュアを壊さないようにすると、どうしてもコワゴワと遠慮する人が出てきて、その遠慮は、霧のように音の周囲にまとわりついてしまうわけですが、どうすればこの霧を晴らすことができるのか。

若手は必ず「そんな振り方じゃ吹けないゾ」とイジめの洗礼を受ける、などと言われてきたニッポンのオーケストラという専門職集団の皆様との関係性を、年に数回戻ってくるだけであっても(単なるハッタリや世渡り上手、あるいは経営者の威光を借りた上下関係(?)ではない形で)進化させることができるのか。

形而上的にも形而下的にも見どころのある舞台。指揮者にとってもチャレンジだろうなあ、と思いながら聴いておりました。

出てくる音は地味かもしれないけれども、(ちょうど日本の能や茶の湯が、静寂の中に極めて複雑な人と人との折衝を内包する芸道であるように)水面下に「見えない/聞こえないドラマ」があるに違いないプロジェクトだと思うので。

(「「音楽の核心は語り得ない」……と語る」などというのは嫌いですが、こういう「見えない/聞こえないドラマ」はわたくし大好物です。(^^))


[追記]

なるほど〜、弦楽合奏には室内楽と別の、あるようなないような伝統とノウハウがあるということですね。

http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2011-02-17

考えてみれば、(誇り高いヴァイオリン族の皆様はそんなシモジモと一緒にされては迷惑だと思われるかもしれませんが……)19世紀の後半くらいから、マンドリン合奏とか、オーケストラの周辺に、同族楽器を各パート複数で演奏する試みが色々あって、そういうもののなかで生き残ったのが吹奏楽と弦楽合奏なのかもしれませんね。

そしてマンドリン合奏にも吹奏楽にも、弦楽合奏の場合のように、各パート複数で演奏する合奏体であるがゆえに、室内楽ともオーケストラとも違う楽器法のノウハウがある(らしい)と。

19世紀に、どうしてこういう(クラシック音楽のメインストリームから見ればケッタイな)合奏体が出てきたのか。文化史なり精神史なりを序文につけたら、近代の弦楽合奏史(含む編曲)で堂々と学位請求だって可能かも。

室内楽編曲と別のルートとして、チャイコフスキーやドヴォルザーク、エルガーなどの弦楽合奏セレナードというのもありますし、この手の同族楽器合奏は、広がりのあるテーマかもしれませんね。

古き良きディレッタントの風習に思いを馳せる動機付けをもちつつ(弦楽セレナードは概して疑古典的ですし)、管弦楽歌曲がそうであるように、同時代のサロンの音楽や家庭音楽をコンサートホールへ移植して、PAの替わりに人数を増やしているような感じもあり、さらにその先には、19世紀にさかんだった個々の楽器の改良(音量の強化が主たる動機、ヴァイオリンも例外ではない)とも心情的にリンクしていそうですし。

私は、主として教育・トレーニング的な動機があるのかと思ったのですが(長岡京室内アンサンブルの場合はまさにそっちがメインですよね)、それを含めて、弦楽合奏は面白そうなトピックですね。

弦楽合奏は、「誰もやらなさそうでいながら、誰もが一度はやってしまう」。そんな風にパラフレーズすると、わたくし好みの話になりそうで……。なんといっても、弦楽合奏と吹奏楽とマンドリン・オーケストラは、どれも1960年代に大栗裕がテリトリーにしていたジャンルですから!

(楽器演奏の集団トレーニングということで言えば、19世紀末の音楽実技学校では、ピアニストをひとつの部屋に集めて一斉に音階練習、なんていうのもあったようですし。同族楽器合奏の遠い背景に透けて見える行動様式には、文化史学者の大好きな「大文字の近代」が控えていそうな感じが濃厚にただよっている。いわゆるひとつの「ぱのぷてぃこん」、監獄の歴史ですよねえ〜。渡辺裕学派にとっても「大好物」かもしれないし、彼らの好きなジャンクフードと見せかけつつ話を生産的にズラしていく格好の梃子になるかもしれませんね。)